パリのマダムの・・・ volume39

『緑のPassion』

いつしか新緑が深緑になる季節を迎えている。
(バルコニーからの写真、木々の葉にご注目)

フランスでは、Covid-19で3度のロックダウンに見舞われたが、ガーデニングの店は日常生活での必需品と認められて閉鎖なし、むしろ繁盛して、売上が増えたという。

コロナ禍で、フランス社会で当たり前に交わしていた”キス”や”ハグ”が出来なくなった。
距離を保て、と言われ、握手もなしで、”肘鉄のごとく”肘を合わせたり、”足蹴りのごとく”足を交差して接触させたり……そうまでして接触をしたいのか(苦笑)

こんなだから、スキンシップに飢えた人々は、今まで以上にペットを可愛がり、植物に触れたくなったのかも。いずれも生き物だが、主人の思いの儘に?! 側に侍ってくれる。

ところで、”main verte緑の手” から何を連想する?
フランス語で「緑の手を持つ」というと、園芸が得意、という意味。英語では “green thumbグリーンサム”手でなくて親指なのが面白い。

この度の園芸人気、庭がない人もバルコニーがない人も、コロナの閉塞感の中で、”緑”に癒しを求めたわけだが、何より、main verteではなかった人でも、室内に観葉植物を置くことから始められる。植物を置いたり育てたりすることは、五感をリラックスさせる効果があり、多少なりとも心を元気にしてくれる。

TVのバラエティ番組で、園芸について取り上げ、なかなか興味深い話をしていた。

フランス庭園とイギリス庭園、違いがイメージできると思うが、なぜこんなにも違うかというと、発達の仕方に違いがあった。フランスでは、庭園は”建築家”が創り、イギリスでは”画家”が担当したのだった。

フランス庭園は、Le Nôtreル・ノートルに代表されるように、大抵がシャトーや貴族の館とコンビだ。そもそもイタリア・ルネサンス庭園の影響を大きく受けている。直線に木を植え、秩序だった配置、対象軸に対して遠方を見る、対称性と遠近法を感じる設計だ。
建物の近くの植物は低く植えられ、遠くの植物は並木道になって、家や城の建築を強調している。噴水や滝なども、風景の対称性をより際立ってみせる。
 
一方、イギリス庭園は、野生の自然というか、フランス庭園の直線性に対して、ボリュームのバランスを追求し、色や植物の多様性と調和を追求。曲がりくねった小道や路地が、想像力を掻き立てる余韻を残している。川、湖、池の配置、光学的観点による、光と陰が織りなす葉や花の配色も楽しめる。

では、日本庭園は? というと、
フランス人の好きな”禅”の世界で紹介があったが、”非思量”まで、出てきたのには、驚き。面白いのは、フランスで仏教と言えば、チベット仏教が中核で、Zen禅になると日本が出てくるところ……何なら、道元までもフランス語の漫画になっている。
ご参考:https://www.manga-news.com/index.php/serie/Dogen-maitre-zen

確かに、日本庭園は、「仏教」文化から広まった。でも、実際には、非常に奥が深い。
ご参考:https://intojapanwaraku.com/travel/2233/

それにしても、自然というと、ナチュラルという言葉から連想されるように、何か、良いことがイメージされるが、番組出演者の精神科医は、元々自然は「恐ろしいもの」「怖れるもの」であり、そのオソロシイものを、人間の手で支配しようとしたのであって、だからこそ”人間が支配する庭園”が造られた、という。そこから、自然発生的に、スピリチュアルな世界に進んで、仏教や哲学が生まれたのだ、と解説していた。

さて、聖書にも古事記にも、”人間は草のよう”、という表現が出てくる。
パスカルは、”人間は考える葦である”と言ったが、古事記に、古代日本人は、人間の祖先を「葦の芽、植物だ」と考えていたくだりが出てくる。”アシ”は”悪し”に繋がるので、”ヨシ”と言い換えられた、と言うのは、日本的でとても興味深い。

本来、陸の動物は、自然に成長し 「栽培する必要のないもの」を食べ、人間は、穀物や木の実など、「栽培を必要とするもの」を食べる。いずれも、草が枯れるように、花が散るように、いつか死を迎える。自然は、そうした人間の営みも教えてくれた。

ところが、麦作りと米作りという風土の違いに支配が変わった。水稲は、苗代創り、田おこし、田植え、草取り、虫取り、絶えず働く。麦作は手間がかからない。収穫が終われば、そこを家畜の放牧地にする。牧畜業は、家畜の大群を統制し支配しなければならない。

人間の自然支配は、人間が他の人間に対してとる態度にも反映された。ユダヤ教もキリスト教も、支配・非支配の世界だ。牧者と羊の関係は、主人と奴隷、聖職者と農民、キリスト教信者と異教徒、に対応する。聖職者は牧師、司牧者と呼ばれ、魂の牧者として民(羊)を統御する。それがヨーロッパ的思考の伝統。人間中心主義が中核になると、さらにエゴが横行。気がつけば、人間界のみでなく、自然界をも支配する社会が出来上がっていた。

ここで、人間が自然を支配していく様子をコミカルかつ風刺的に描いた動画をご紹介。

世界の人口が増え、大量な食糧生産が必要とされると、環境破壊が進み、次第に地球温暖化が叫ばれ、今や地球の緑地化運動が盛んになっている。しかし、緑を植えれば良い、という問題ではない。森林のエコシステムを見直す、農地に部分的コンポストを作る方法、砂漠の緑地化……専門家の意見も分かれて、支配を巡る綱引きにも思えてくる。

例えば、20世紀後半、グレート・グリーン・ウォールというプロジェクトが始まった。
サハラ砂漠の拡大を防ぎ、サヘル地域の間伐を防ぐ目的で、アフリカ西海岸のセネガルからモーリタニア、ブルキナファッソ、マリ共和国、ナイジェリア、ニジェール、チャド、スーダン、エチオピア、エリトリア、ジブチの沿岸まで7800kmを樹林帯で繋ぐ計画。帝国植民地時代の英vs仏の攻防を思い出すが、もともと主導したのは、カダフィを中心としたアフリカ連合だった。

カダフィは、英国に留学もして、英国のエージェントだった時期もあっただろうが、途中からイスラムに覚醒し、アフリカ統一の夢を持った。リビアはアフリカの古称であり、イスラム教で最高の色である緑一色の国旗を従え、”緑のアフリカ”を築こうとしていた。
ご参考:https://ja.wikipedia.org/wiki/大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国

2011年3月11日福島第一原発事故が起きた。その報道が過熱する中、日本から遠く離れたリビアで、NATOの総攻撃が始まった。その数ヶ月後、結局カダフィは殺されてしまう。

何より、アフリカは資源であり、食料庫であり、労働力の宝庫だ。
2021年1月11日、フランス、国連、世界銀行の共同で、パリで開催されたワンプラネットサミットでもGreat Green Wallへの投資が話し合われた。先進国は、アフリカが独自路線を歩むのを許さない?!
ご参考:https://newsphere.jp/sustainability/20210130-1/

緑の環境対策は、共存共栄や互助を目指しているように見えて、支配欲と利己が渦巻くビジネスが至る所で見られる。果たして、威を借りているのは……?

緑のPassionは続く……(大文字のPassionには受難の意味がある)

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