パリのマダムの・・・ volume16

『“Oh la vache !” 』

これは、我が家でもよく使っているフランス語の感嘆詞で、オ・ラ・ヴァッシュと読む。
「ええーっ、うわー、なんと、ひどい」など、驚いた時に出る言葉。
フランスで生活するようになった初期の頃は、la vacheは「牛」なのに、なぜ?と
思ったが、意味も考えなくなって久しい今では、普通にスッと口から出る。

私の日曜朝は、起床時間次第ではあるが、カフェオーレを飲みながら、フランス2(国営放送)8:30からの宗教番組を見ることから始まる。
仏教に始まり、イスラム教、ユダヤ教、正教会、プロテスタントという流れだが、なぜか、国教カトリックがない。暗に、カトリック=ユダヤ-キリスト教という括りなのかも……

過日、ユダヤ教のパートで、アルファベットの起源の話が出てきた。
これが何と、Oh la vacheと繋がったのだから、喜々としてエッセイに書きたくなった。

いつもラビ(長老)とゲストで対話が進行するが、その日のゲストは、Frank Lalouフランク・ラルー。本人はフランス生まれだが、両親はユダヤ系モロッコ人。ユダヤ文化とヘブライ文字に関心を持ち、長いこと教師をしていたが、現在、Calligraphe(書道家)でイラストレーターもしているアーティストである。
ご参考:https://www.lalou.net

「アルファベット」という単語は、ギリシャ文字の最初の二文字、アルファἄλφαと
ベータβήταに由来する。フランス語は主にラテン語由来で書かれるが、ラテン語は
ギリシャ語から派生している。で、学校ではラテン語とギリシャ語を教えると言うわけ。

最初のアルファベットは、紀元前1700-1500年頃に地中海東部の沿岸地域で発達したと
一般に考えられている。紀元前1000年頃に北セム文字が、南セム文字、カナン文字、
アラム文字、ギリシャ文字、の4つの系統に分かれた、と考える学者が多い。

ギリシャ文字はフェニキア文字を採用した、と言われているが、ラルーによれば、フェニキア人は商人であって、文字を伝えたことはあっても、文字の発明者ではない。エジプトのヒエログリフから、原シナイ文字が生まれ、そこからギリシャ語のAαアルファやヘブライ語のאアレフ(第一文字)ができた、という話だった。

原シナイ文字は、シナイ半島にあるトルコ石採掘共同体で発見された。ファラオの命に
より、カナン(現レバノンとイスラエルの辺り)から来たセム人が作業をしていた地域だ。

Aの文字の元は、なんと、以下のように、alp「牛」のピクトグラム(絵文字)。

ちなみに、Bの方はbayt「家」で、「家の周りにたくさんの牛がいた」ということになる。

古代エジプトでは、王朝時代を通じて、牛は重要な家畜だった。乳を食用とするほか、神々への供物、牛革の利用、何より農作業の補助とする動物として重宝された。生活のパートナーであるとともに、神の化身として信仰の対象になる神聖な存在であった。

スフィンクス像の片面に碑文があるが、その中の一つの語を母音を補って翻字すると、
ba’alatバアラトとなる。バアラトは、シナイ地方での女神ハトホルのセム語の呼び名で「女主人」を意味する。トルコ石を掘りに行った遠征隊の守護神でもあったという。

ハトホルは、多産、豊穣、再生の太母神天界の雌牛として崇拝された太母神で、天空に
住む太陽の母と崇められる。その雌牛の乳房から天の川(従ってmilky way)が生まれ、
身体は天空で、毎日太陽を生んだ。
ご参考:https://ja.wikipedia.org/wiki/ハトホル
サッカラにある王家の墓では、地下に埋蔵された石棺の中から防腐処置をされた約60頭もの雄牛が発見されている。
ご参考:https://ja.wikipedia.org/wiki/アピス

ところで、古代世界では、蛇は定期的に脱皮して新しく生まれ変わる、もしくは別の生命となって再生すると信じられていた。蛇に関する最初の神話は、生と死の2面を持つ「月女神」が地母神で、最初の人間を作った、と述べている。

農耕文化の拡大とともに、蛇の呪術は世界的な広がりを見せるが、蛇信仰は、エジプトに起こって世界に伝搬した、という説がある。コブラは、火や太陽のシンボルであり、太陽神・王たちの冠及び額の装飾となった。

一方、人類最古の都市文明を建設したシュメール人は、メソポタミアに定住する以前は牧畜に携わり、天や牛を崇拝する民族であったらしい。
「蛇信仰」が「牛信仰」に取って代わった可能性がある。
前にも触れたミトラ教は雄牛崇拝。雄牛の血は雌牛の力を借りずに万物を創造すると考えられ、ローマでは、ミトラの祭式において、雄牛の供犠が行われ、入信者は殺された雄牛の血で洗礼を受けた、という。

さて、蛇信仰と牛信仰の対立は旧約聖書の創世記に登場する。
蛇はサタン(悪魔)と呼ばれる霊的存在である。アダムとイブの失楽園で、蛇がエヴァを
誘惑して生まれたカインと、エヴァがアダムを誘惑して生まれたアベルと、の2血統が
生まれた。主ヤーウェは、農民カインの捧げた「野菜」ではなく、牧人アベルの捧げた
動物(羊の初子)の犠牲を喜ぶのである。カインがアベルを殺害した後、神はセツをたて、セツの血統から洪水伝説と箱船の「ノア」が生まれる。

イスラエルの祖アブラハムはノアの息子セムの子孫であり、このセム系民族が「牛信仰」の担い手となった。聖書で「神」Godと訳されている添え名はElエルであるが、このエルは「人類の父」と呼ばれたフェニキアの雄牛神。ヘブライのヤァウェやイスラムのアラーもこれ。ミカエル、ガブリエルなどヘブライ語由来の天使はこれに因む。

初期キリスト教時代に行われていた秘教の一つ「オルペウス教」は、輪廻転成、禁欲的
道徳、霊魂の救済など、西欧における一種の仏教でもあった。その定式文句に、
「雄牛は蛇の父親であり、蛇は雄牛の父親である」というのがあるのも興味深い。

インドで発展したバラモン教やヒンドゥー教では、牛は神聖な動物とされ、その肉を食したりすることは許されない。ただし、聖牛とされるのは「インド瘤牛」で、「水牛」は
犠牲獣として山羊や羊と一緒に殺されている。外国人の肉食用に提供されるらしい。

中国の祖先神は伏犠ふっきと女媧じょかという人面蛇身の夫婦神で、日本に大きな影響を与えた道教の祖である。その後、蛇から龍という空想の神へと変身する。

日本の古代原始信仰は「蛇信仰」だった。神社のルーツは、「蛇信仰」、日本原始の祭りの形は神蛇とそれを祀る女性蛇巫「へびふ」を中心に展開された。注連縄は蛇が交合する姿であり、鏡餅は蛇がとぐろを巻いている姿である、という話もある。
ご参考:http://kanazawa-jj.or.jp/about/entry-43.html
ご参考:http://iwamikagura.jp/support/jyadou/

三輪山の蛇信仰(山の名はとぐろを巻いた姿に見えるため)から、アマテラスの太陽信仰になり、ご神体は「鏡」。古代に、蛇は「カガ」と呼ばれたが、「かがみ」は「かがめ」(蛇の目)を表すものだった。当時、K音とH音の区別はなかったようで、「カカ」は「ハハ」と同じ、蛇を地母神の化身とする女性崇拝の名残。ここから、カカ様、かーさん?!

神仏習合の神「牛頭天王」。仏教に伝わる祇園精舎の守護神でもあり、厄除けの神として京都の八坂神社などに祀られている。
武神「素戔嗚尊(須佐之男命)」と同一視されるが、スサノウノミコトが退治したのは八岐大蛇。古代オリエントのエラム王国の都、アケメネス朝ペルシャ時代に栄えた王都『スサ』Susaにリンクする?!

天満宮には「神牛」が祀られているが、菅原道真の誕生日と死去日は丑だったとか。
「金色の牛」と言えば、イスラエル民族の「金の子牛」が浮かぶ……
ご参考:https://www.ikimi.jp/sugawaranomichizane/ushi.html
ご参考:https://ja.wikipedia.org/wiki/金の子牛

他にも、京都の太秦、広隆寺境内では牛祭という大避神社の奇祭がある。
ご参考:https://ja.kyoto.travel/tourism/single02.php?category_id=1&tourism_id=1347

熊野那智神社の別宮「飛瀧神社」(瀧は蛇)では『牛王神符』の霊験を高める神事「牛王神璽祭」がある。宝印は、烏文字で書かれ「おカラスさん」とも呼ばれる。
ご参考:https://kumanonachitaisha.or.jp

というわけで、「牛」を探して、「蛇」も出てきた。おまけに「烏」……(笑)

”Oh la vache!” に、こんな奥深い背景があるとは思いもよらなかった。
言葉としては”Holy cow!”(聖なる牛)が近いが、まさに、”Oh my God!”なのだ。
Vachementヴァッシュマン(めちゃ)、スッキリしたあ。

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