パリのマダムの・・・

『「命」とは?』

「命」という漢字は会意文字で、「冠」と「口」に、人がひざまづく姿の象形。

「冠」というので、ふむ、と思ったのが、神の前に、被り物をするという慣習である。

まず、日本。神職は冠や烏帽子を被るし、お坊さんも葬式や大法要では「帽子」を被る。神前結婚式で、花嫁は綿帽子、角隠しを被る。

ユダヤ教で、男性は帽子やkippahキッパという、ドーム状の小さなベレーのようなものになる被り物をつける(キッパはドームの意)。女性も、頭を覆って髪を見せない。

イスラム教では、タギーヤという帽子や、クーフィーヤというスカーフのようなものにイガールという黒い輪で押さえる。女性は、右のようにさらに厳格な衣装がある。

これらはいずれも、頭上に神がいることを意識する行為となる。

つまり、『命』という漢字の成り立ちは、
「人が、ひさまずいて、神が『言いつける』神意を聞く姿を現し、『いのち』は「神から与えられた」のであり、そこから派生して、以下のような言葉が生まれている。
1)言いつける、おおせ -「命令」「勅令」
2)名付ける -「命名」「命題」
3)名簿、戸籍 -「亡命」
4)いのち -「生命」「命脈」
5)天の定め、巡り合わせ -「命運」「宿命」
6)まと、あて -「命中」
7)みこと、神の名に添えた敬称 -「素戔嗚命」「大国主命」

「いのち」は尊いものである、と誰もがいうだろうが、果たして「生きとし生けるもの」全ての生き物の「いのち」は同じ価値を持つものだろうか?

自然界には、人間が介入しなければ、自然の「種の存続」がある。
しかし、今や、植物や動物は、人間のエゴで「いのち」を操作されている。

カマキリやクモの雄は、受精後、雌の栄養をつけるために雌に喰われてしまうが、自分の「いのち」は、子孫、「種の存続」のために費やされる。

人間も「種の存続」としてなら、「永遠の生命」があると言えるが、そうは言っても、それで納得できるか、というと、人間はその点、往生際が悪い?!

「不老長寿」の研究は昔から続き、始皇帝は「不老不死」の薬を求め、逆に死期を早めた。
ミイラは「不老長寿」の薬としても珍重されたが、日本でも貝原益軒の『大和本草』に、「万能薬」として紹介されている。(ミイラは「木乃伊」(モミイ)と書くが、おそらくこの日本語はポルトガル語からの転移であろうが、仏語でもmomieという。)

カニバリズム(人肉を食す事)は中世では普通に行われていた。生存や儀式だけが目的ではなく、医療目的として、頭痛から痛風まで、様々な病気に対して人体を材料として薬を使い、血液はてんかんなどの痙攣性症状を軽減すると信じられていた。

こうした中で、ドラキュラDracula(吸血鬼を表す英語は本来ヴァンパイヤVampire)の話も生まれるが、伝説によるところが大きい。世界中で見られる、血液を飲んだり、肉を食べたり、というカニバリズムの行為には、どこか見逃せない「太古の教え」があるのかもしれないが、一方で、カニバリズムは常習性があるとされ、精神疾患の結果として、その種の殺人行為は、近代以降もあちこちで見られる。「パリ人肉事件」はご存知だろうか?
ご参考:https://ja.wikipedia.org/wiki/佐川一政

さらに、アンチエージングに「若者の血液」投与の話もあれば、「不老不死は、人工多能性幹細胞で実現する」という説も出て、老化細胞を破壊する薬の開発をするベンチャー起業も増え、富裕層が熱望し、起業家や投資家が注目する先端科学だ。

ところで、諏訪大社を訪れた時に、実に興味深い話を知った。
諏訪大社は、7年に一度の御柱祭で有名だが、縄文からの流れがある由緒正しい神社。
その長い歴史や神事の秘宝が代々受け継がれてきた。
ご参考:http://suwataisha.or.jp
その機に、肉食の免罪符たる「鹿食免」の事を知ったのだ。
日本では仏教伝来で殺生は罪悪とされ、狩猟や肉食が禁じられていた。ところが「諏訪の勘文」では「動物が成仏できるように、あえて人間が食すことでその血肉となり、人と同化することで成仏できる」として考え出されたのがこの神符だった。

武士は、戦力の維持と強化にこれを利用したというが、昔「鹿肉」は「薬」でもあった。
低タンパクで肉類なのに青魚に含まれるDHAが唯一含まれ、鉄分、ビタミン、多価不飽和脂肪酸も多く含む。

ついでに、ユダヤ教のコーシャやイスラム教のハラールやハラームは『食肉』の戒律。
ご参考:https://ja.wikipedia.org/wiki/カシュルート
ご参考:https://ja.wikipedia.org/wiki/ハラール

ライフサイエンスが進歩して、「体外受精」はもとより、「臓器移植」は、当たり前。
ひところ話題になった「クローン羊」、倫理的にストップがかけられているとはいえ、果たしてこの世に「クローン人間」は絶対に存在しないと誰が保証するのか ?! 「クローン人間」が極論でも、今や「体細胞クローン」は可能なのだ。

一方で、脳死の「命」はどうなる? 心臓と肺を動かし、栄養を与え続ければ「人」は継続して生きていられる。では、「安楽死」「尊厳死」という問題は、どうする?

幼年期は目の前の課題に邁進してそんな事考えも及ばないが、青年期は「生きる」意味を意識し出し、壮年期には「人生」がわかったような気になって、老年期に「いのち」の最後をどう迎えるか、となる。

幼い時は時間がゆっくり流れていて、年齢を重ねるごとに加速度的に時間が早く感じられる。時間感覚があるから、欲望も苦悩も生まれる。老いて、幸か不幸か認知症にでもなると、時間感覚が奪われるから煩悩もなくなる。

どんなに「医学」や「科学」が進歩しても、「いのち」の解明はできないのだから、往生際が悪くなって当たり前なのだ。ではどうする?

しかも、人間というものは、「自分」が一番わからない。
「わからない」から占いにハマり、「わからない」から、宗教にすがる。

近代に宗教が否定され科学が発達してきたのは、政治的な意味合いが強く、科学を学問するに唯物論が必要とされ、科学万能思想の時代になった。しかし、ここまで科学に縛られる生活になってくると、どこか精神性、というものを求めるような反動も出る。

唯物的学問を得た医者や科学者の中に、「宗教」に目覚めることがあるのは、当然のような気がする。
アップルの創始者スティーブ・ジョブスも、仏教に傾倒し、最後は、「まる」型の社屋まで作ってしまった。

スタンフォード大卒業式での有名なスピーチには、「禅」の影響を受けた話が登場する。

『命』とは、生(始まり)も死(終わり)も、「神の命令」なのだとしても、結局、生命現象としての「いのち」は、「生命観」をどう定義するか、に行き着く。
それは、本来、悠久の時を流れる思想でなければならないはずだ。

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