100年の歴史と女性たちDECADE⑨
【1961年(昭和36年)~1970年(昭和45年) 】

~ 時事 ~

このDECADEは「高度経済成長期」と呼ばれ、敗戦国日本が世界でも有数の経済大国として認められた時期でした。

1950年代後半から続く世界的好況に恵まれ、当時の池田勇人内閣は所得倍増計画を打ち出し、高度経済成長政策を推し進めます。その政策は次の佐藤栄作内閣にも引き継がれ、日本は空前の繁栄を享受します。

当時の日本は敗戦国として貿易に一定の制限を設けることが許され、自国にとって有利な条件の下で貿易量を増加させ、経済の繁栄を享受していました。しかし、世界の流れは貿易の自由化へと向かっていました。貿易の自由化は日本にとって大きな打撃となる恐れがありました。政府は自由化に備えて、製造業などを中心に企業に対し設備投資を勧め、技術革新による合理化で製品のコストを下げることを奨励しました。

一方で、製造業との給与格差が問題となっていた農家に対しては、所得を増やすための支援として、1961年に農業基本法を制定。これまでの家族総出の農作業に対し、大型の機械を導入することで農作業を合理化、余った労働力は都市へ出稼ぎに行くことで、その家族の収入増加を図ったのです。収入が増えることで、それがまた消費に回され、経済成長を支え、さらなる労働力が求められます。こうして農村部では兼業農家が増え、60年代前半で400万人が農業を離れたといわれます。農業基本法は、離農政策を進め、都市部の労働力不足解消を担うという側面があったのです。

貿易の自由化は世界共通のルールとして進められ、日本もそれに追随していきます。

1963年(昭和38年)、日本は、まずGATT(関税と貿易に関する一般協定)11条国となります。第二次世界大戦後、自分の国の産業を守るために関税をもうけるのではなく、世界の国々が自由に貿易ができるようにと定めたルールがGATTです。

経済成長が進むにつれて、他の国と同じように、国際収支を理由に輸入制限ができない国となりました。

また、1964年(昭和39年)にはIMF(国際通貨基金)8条国となります。この結果、日本は国際収支を理由に為替管理ができない国になります。

こうして、日本は貿易の自由化という世界ルールの一員に認められ、先進国としての地位を高めていきました。

日本の高度成長を支える要因はさまざまでした。

1965年(昭和40年)、日本は韓国との間で日韓基本条約を結び、国交を正常化、日韓の貿易が盛んとなります。

アメリカはベトナム北爆を開始、その影響で日本はベトナム特需に沸きます。

国内でも東京オリンピック開催、新幹線開通など好景気が続きます。その結果、1968年(昭和43年)、日本はアメリカに次いで、GNP(国民総生産)が世界第二位の国になったのです。

この高度経済成長は、日本の女性労働に大きな影響を与えました。空前の好景気が、日本に労働者不足という事態を招いたからです。

労働省が出した1960年版「婦人労働の実情」によれば、当時の女性雇用者数は601万人でした。それが1967年には1000万人を突破します。

女性の労働力が大いに注目されたのです。

当時、学校を出た女性が社会に出て働くことは、あたりまえになっていましたが、その多くは結婚までの数年間働くと退職し、家庭に入り、仕事は若い人と交代していました。

このため働く期間が短く、女性たちはキャリアを積むことがなかなかできませんでした。結果として仕事も単純労働に従事することが多かったのです。

企業も労働力不足から女性を労働力として注目しましたが、その求人の多くは24歳未満でした。これは年功序列型の日本企業において、中高年を雇用すると若い人に比べて高賃金が必要となるからでした。単純労働の担い手として、特に若い層への求人が集中したのです。

しかし、結婚退職というスタイルは大きくは変わらず、労働力不足は続きました。そのため、それを補うために、徐々に既婚女性の職場進出が進んでいきました。

子育てが一段落した女性たちが再び社会にでて働くようになったのです。

このころよく使われた言葉が「パートタイマー」です。

この言葉は1954年(昭和29年)に大丸百貨店が東京店を開店するときに使われ始めたといわれています。当時の新聞の広告欄には、「お嬢様の 奥様の 3時間の 百貨店勤め」という募集広告が掲載されていました。

既婚女性にとっては、再び社会に出ようとしたときに、それぞれの事情に合わせて短時間働くことができる、このパートタイム雇用が都合がよかったため、それを選ぶ人が多かったのです。

1965年(昭和40年)の労働省の調査では、女性のパートタイマーのうち、既婚者が97%という結果がでています。

社会では女性の労働力が求められましたが、女性差別の意識もまた残っていたようで、それがさまざまな形で表面化し、社会を賑わせることになりました。

1962年(昭和37年)に早稲田大学の教授は「大学の文学部は女子学生に占領されていまや花嫁学校と化している」とした「女子学生亡国論」を週刊誌上で発表しました。これは、経済復興とともに、女性の大学進学率が高まり、大学のキャンパスで、大勢の女子大生をみかけるようになったことに対するメッセージでした。慶応大学の教授や東大助教授らも女子大無用論などを述べるなど、雑誌などを中心に増えた女子大生についての論争がおきました。事実、文学部に限ってみれば全体に占める女性の割合が40%近くあり、一部の大学では90%近いところもありました。

1965年当時、大学進学率は男性が20.7%に対し、女性が4.6%でした。

1966年(昭和41年)には熊本大学が入学試験要項に「女子が薬学部製薬学科を第一志望とすることは好ましくない」と明記することを決定、九州大学などでも同様の入学制限を決めましたが、同窓生の強い反対などで最終的にはすべて取り消されるという事態も起きました。

次に問題となったのは、職場での差別でした。

その代表的なものがいわゆる結婚退職のすすめです。これに対して、一人の女性が会社を相手取って裁判を起こしました。

当時の新聞によりますと、福島県のセメント工場に就職したある女性が、就職の際に「結婚または35歳になったら退職します」との念書を書かされたというものです。女性は念書に署名したのは、しないとやめさせられると心配したからと答えています。

それから3年後に結婚、人事係長が「やめるように」と実家に連絡、それでも出社を続けると何度も「女なんだから」「約束したのだから」と説得され、拒み続けた結果、解雇されたものです。女性は解雇された翌年、東京地裁に提訴しました。

裁判で会社側は、「結婚後の女子職員は家庭本位となり、欠勤がふえ、労働能力が低下する」と主張、これに対し東京地裁は、「結婚退職制は性別による差別であり、結婚の自由を制約するもので公序良俗に反する」との違憲判決を下し、解雇無効を命じました。

その後女性と会社側は高裁で和解し、結婚退職制と35歳定年制は破棄されました。

現在ではちょっと考えられないことですが、当時は当然とされた労働慣行でした。多くの働く女性にとって、「会社」は「女性という理由で不当な差別を受ける場所」だったのです。

労働省の調査では、当時の女性事務職員の平均年齢は24歳、平均勤続年数は5年でした。

女性に対する結婚退職や、男性に比べて若すぎる定年制など、差別撤廃に向けて各地で裁判が起こされ、いずれも女性側が勝訴しています。

また、1963年(昭和38年)には、電電公社(NTTの前身)が育児休職に関する協約を組合との間で正式に締結し、2歳未満の乳幼児を持つ女性に対し、無休で最大2年間の休職を認めました。さらに1965年(昭和45年)には、長野県上田市が地方公共団体で初めて女子職員の育児休暇制度を実施するなど、女性の職場における環境も少しずつ改善され始めました。

経済の目覚ましい発展の裏では、人々の生活や健康に大きな被害も生まれました。それが公害です。

当時日本では4大公害病と呼ばれた水俣病、第二水俣病(新潟水俣病)、四日市ぜんそく、イタイイタイ病が発生していました。

この公害病の対策のために制定されたのが、公害対策基本法です。

この法律では、大気汚染、水質汚濁、土壌汚染、騒音、振動、地盤沈下、悪臭の7つが公害と規定されました。

公害病は、普通に生活している人たちにとって、その生活の中で知らない間に健康がむしばまれるものでした。

被害を受けた住民らは相次いで訴訟を起こし、4大公害訴訟はいづれも住民側の訴えが認められました。

経済の発展は人々の生活を潤し、豊かにします。一方、職場における差別の問題や、生活環境への悪影響など、問題もまた生まれたのでした。

1970年は日米安全保障条約が改定されてから10年目でした。

安保条約は10年ごとに自動延長されることになっています。1960年には大規模な反対運動(安保闘争)が展開されましたが、1970年には、ベトナム反戦運動などと結びついて、労働者層の一定の支持を得られたものの、全国的に盛んとなっていた学生運動の色彩が強まり、1960年当時ほどの盛り上がりとなりませんでした。条約そのものは自然延長となりました。

前回の改定以来、日米関係のもと経済成長路線をとり、繁栄を続けてきた日本において国民の関心はすでに経済へと移っていました。

1970年といえば、大阪万博が開かれた年です。

アメリカに次ぐ経済大国として、GNP世界2位を象徴するイベントとして大成功をおさめたこの万博、アポロ12号が持ち帰った月の石を展示したアメリカ館は連日長蛇の列となりました。

女性たちは、第二次世界大戦中は働き手として生産現場に駆り出され、戦後は、帰還兵に働く場を与えるために、「よき伝統として、女性は家庭で子育てをし、外で働く男性のために家庭を守る」といった良妻賢母的な思想のもと、家庭にはいることが推奨されました。

1960年代に入ると、経済の繁栄とともにホワイトカラーが増え、家庭から父親の姿が見えなくなりました。

労働時間の延長、通勤距離の増大、さまざまな理由はありますが、女性にとっても子供にとっては生活が豊かになっても、不満も感じていたのかもしれません。

社会に出て働くようになった女性からは、「男女は社会的には対等であり平等で、性による差別はなくすべき」という考えも示されるようになり、これまでの伝統的な女性のイメージが変わり、女性が社会にでて働くことがごく普通に受け止められるようになりました。

国連では「女性差別撤廃宣言」が採択され、その後の女子差別撤廃条約にとつながり、男女平等社会の推進に大きく貢献することになります。

現代の社会でも、女性であることで制約を感じることがまだまだあると思います。この時代は、多くの女性たちが「生きづらさ」を感じ、その抑圧されたエネルギーがさまざまな形で現れ、社会の変革を促した時代であったともいえます。

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