100年の歴史と女性たちDECADE⑦
【1951年(昭和26年)~1960年(昭和35年) 】

~ 時事 ~

太平洋戦争が終わり、荒廃した国土と窮乏生活の中から日本が復興を遂げ、高度成長期を迎えたこのDECADE。日本は独立を果たし、世界の一員として再びの仲間入りを認められました。

この時代は戦後日本の政治経済の骨格ができあがった時代です。その中で女性たちはどのように生きたのでしょうか。

1951年(昭和26年)9月8日、敗戦から6年がたち、日本はアメリカやイギリスなど自由主義陣営と呼ばれる国々との間でサンフランシスコ条約、いわゆる講和条約を結びました。これをもって戦争は終結し、日本は主権を回復するとともに国際社会への復帰が認められました。
この条約が発効するのは翌年の4月28日。
条約の締結国の中にソ連や中国は含まれていませんでした。その為、戦前・戦中をとおして中国大陸にわたった日本人女性やその子供たち、いわゆる残留日本人に対する公式支援ができず、彼らの帰国が遅れることに。
本格的な支援は1972年(昭和47年)の日中国交正常化以降となります。

また、この講和条約とともに結ばれたのが、日米安全保障条約(旧安保条約)です。
アメリカ軍の在留を認め、基地を提供することを定めたこの条約は、戦後まだ国家としてしっかりとした体制が出来上がっていなかった時期に、日本の安全保障をアメリカに委ね、その間に経済復興を図るという日本の政治経済の基本構造となりました。

当時の日本は、1950年(昭和25年)に始まった朝鮮戦争の影響をうけ、いわゆる神武景気と呼ばれる、好景気時代を迎えていました。
朝鮮戦争が始まってから板門店での休戦協定が結ばれるまでの3年間、日本は、アメリカを中心とする国連軍の補給基地として、大量の物資やサービスの需要があり、朝鮮特需と呼ばれました。
その内容はほとんどが物資調達で、軍用毛布やトラック、砲弾、また休戦会談が始まってからは鉄鋼やセメントなどの韓国の復興資材の発注が増え、さらにはトラックや船、戦車の修理、基地の整備、通信手段などのサービス需要もあって、日本は戦後の不況を脱出することができました。
1956年(昭和31年)に出された政府の経済白書には、「もはや戦後ではない、戦後復興は終わった」という言葉がみうけられるほどでした。

“専業主婦”という言葉があります。今から100年前、主婦の定義は「働いていても、いなくても、家事労働を主に担っている女性」のことでした。この定義からすれば、この時代の女性の多くは専業主婦ということになります。
国民の生活も豊かさを増し、3種の神器と呼ばれる白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫が普及し始めました。このおかげで当時の女性たちの家事はずいぶん楽になったといわれています。

戦争中は男性に代わって女性が工場などで働くなどしたため、女性の就業率は一時的にあがりましたが、戦後、引き揚げてきた男性に職場を譲るため、女性が離職したりしたために元の状況にもどりました。

1950年から1960年の間に女性の就業率は10%も減っています。
この背景には日本の産業の大きな変化があります。朝鮮戦争を契機に急速な復興を遂げた日本は、産業別労働人口が第一産業と第二次産業で逆転、さらにその中でも繊維産業から鉄鋼や機械工業へと重点が移ってゆきます。都市に労働者が集中しました。いわゆるサラリーマンと呼ばれる労働者が増えたのです。
都市に集中したサラリーマンは、農業従事者とは違い家庭と職場が離れていました。そのため夫は働いて収入を得て、妻は家事労働に専念するという家庭内分業つまり性別役割分担ができあがりました。これはこの時期一般家庭に広く普及しました。

企業は優秀な労働力を確保するために、終身雇用、年功序列賃金制度など日本型雇用慣行により男性を正社員として処遇しました。
一方働いていた女性に対しては、結婚したら退職、25歳で退職、出産したら退職といった不文律をもつ企業も多くありました。そのため女性は早期退職を余儀なくされ、その結果として単純仕事しかさせてもらえず、高度な訓練や人材養成もされないという、職場における女性差別となったのでした。
この問題は1960年代後半になって、結婚退職制度に対する訴訟へと発展していきます

また、賃金格差も広がります。1956年に開かれた世界婦人労働者会議では、この賃金格差が取り上げられました。男性に対する女性の賃金割合は、当時の西側先進諸国と比べると、アメリカが71%、フランスが80%、イタリア84%、西ドイツ63%に対し、日本は44%とその低さが際立ちます。

戦争中、雑誌に限らず出版物は、編集方針・紙の供給両面から規制されていましたが、戦後になって復刊・新刊が相次ぎました。1917年に創刊され、戦前・戦後を通じて4大婦人雑誌の一つとして知られた「主婦の友」をはじめ、婦人向けの出版物も出そろいました。
サラリーマンの妻として、その数が増えた専業主婦に向け、あるべき主婦像、家庭像のモデルを提供したといわれます。

主婦のあり方を巡っては論争もおきました。
評論家であり社会運動家の石垣綾子さんは「主婦という第二職業論」の中で、「女性は結婚すると職業を捨てて家事労働に専念し、人間的な成長が止まってしまう」として、専業主婦を批判し、女性の仕事の第一は職業であるべきだと主張しました。
この主張に対し、「主婦天職論」を主張し、性別役割分担に基づく家庭擁護の立場から反対する人もいました。

労働力需要が増し、都市に人々が集中することで核家族化も進みました。そのため、主婦の家事労働を少しでも助けるための電化製品(三種の神器)が普及し、家事労働時間は短縮しました。同時にそれらに対する出費による家計負担も増えていきました。
都市部で働く男性を専業主婦が支え、その主婦を電化製品が助ける。その出費を支えるために、早期退職した女性が再びパートタイムで働くといったスタイルができあがりました。
女性が働くということをめぐって、家庭の在り方は、主婦という存在は、など、現代にも通じる問題が取りざたされ始めたときでした。

売春防止法も成立しました。
公娼と呼ばれる、いわゆる公認売春婦制度は古くから日本に存在しました。女性たちは、明治維新以降この制度の廃止を求めてさまざまな働きかけを行ってきました。
1955年(昭和30年)厚生省から「売春白書」が出されました。それによりますと公娼(公に営業を許された売春婦)は50万人、当時の生産者人口と呼ばれる15歳から64歳の女性の人口が5500万であることから、およそ100人に一人が公娼だったということです。この中には正式に認められずに売春婦としてはたらく私娼は含まれていませんから、その実態はどれくらいの数字かはわかりません。
戦後の混乱期を生き抜くために、多くの女性が厳しい生活を強いられていたようです。

女性を性産業で働かせるための人身売買は、有史以来存在するといっても過言ではなく、その根絶のために国際社会もさまざまな条約を採択し、規制してきました。
1951年(昭和26年)、国連では、それまでに採択されていたいくつかの条約を統合する形で「人身売買及び他人の売春からの搾取の禁止に関する条約」が発効しました。1958年(昭和33年)に日本も締結しています。
日本における売春問題は、戦後すぐに連合国最高司令官から日本政府に「日本における公娼制度廃止に関する覚書」が公布され、明治時代から続く公娼制度に終止符が打たれましたが、その後も法律は整備されず、施策も不十分でした。

日本における人身売買の歴史は古く、もともと児童労働の慣行がありました。戦後は貧困家庭の児童や戦災孤児が労働力として求められ、雇用されていました。その中で、女子の多くは売春に従事させられていました。
労働省の調べなどによりますと、人身売買の被害者の8割は女性という統計もあり、原因の1位は貧困で、親の借金の肩代わりに何年かの年季奉公といった形が多く見受けられます。
例えば1953年(昭和28年)は夏から秋における冷害と風水害のために農村が窮乏し、農村からの人身売買の増加が新聞に報じられています。
労働婦人少年局の 「いわゆる人身売買事件第五回資料調査報告」によれば、売られた児童の数は1883人で前年度の約1.3倍となっています。このうち女子は1756人、男子は127人、年齢では16~18才が最も多くなっています。しかし、実際はどの位だったのか見当がつきません。また、大部分を占める女子の比率は1951年度82%、1952年度89%、1953年度93%と年毎に増加しています。
この報告書には、16才の売春婦の次のような聴取書(一部抜粋)が掲げられています。
 「私は家が貧しいので帰りたくありません。仮に帰っても直ぐ何処かへ売り飛ばされるにきまっています。米飯は一日に一度しか食べられません。後はジャガイモか他の代用食です。 こちらでは食事情がよくて三度米が食べられます。ここで辛抱したいと思っています。(地元では)私がパンパンに来ていることをよく知っています。」
こうした少女たちが売られていき、働いていた地域を赤線地帯と呼びます。いわば公認で売春が行われていたところです。

1950年代に入って、売春行為を取り締まる法律は何度も議員立法の形で提出されましたが、そのたびに反対多数で否決されてきました。赤線で実際に働く当事者たちにとっては失業問題であり、反対の声が大きかったのです。
しかし社会の風潮が売春を容認しない方向に進む中で、1956年に売春防止法が成立、1958年に全面施行となり、赤線地帯もそれと共に廃止されました。
売春防止法は長年にわたる女性たちの声が政府を動かし、作り上げたものです。

女性たちは平和運動にも熱心でした。
1954年、アメリカが南太平洋のビキニ環礁で水爆実験を行いました。この時近くの海域で操業中だった日本のマグロはえなわ漁船第五福竜丸が、水爆実験の「死の灰」をあびました。
乗組員23人が被ばくし、全国で魚の放射能汚染の不安が広がりました。
母親である女性たちにとって、子供たちの命と将来にかかわる問題です
この問題を受けて原水爆の実験禁止を求める署名運動が世界中に広がりました。
そのきっかけは日本の主婦たちでした。
当時朝鮮半島では朝鮮戦争が始まり、日本国内では自衛隊が設立されるといった状況の中で「二度と息子を戦場に送り出したくない」「どうしたら戦争を防げるのか」そういう思いをもった東京・杉並区の主婦たちが自分たちで何ができるかを話し合い、署名運動を始めました。
インターネットも携帯電話もない時代です。主婦たちは一軒一軒回って署名を集めました。そこにまた主婦が協力し、およそ一か月で集まった署名は27万人、当時の杉並区の人口39万人の7割にあたります。
主婦たちの声は杉並から全国へとひろがり、署名運動の全国協議会も結成されました。集まった署名は3000万人分を超え、国会でも原水爆実験禁止の決議が採択されました。
主婦たちの思いから始まった運動は世界に広がり、最終的には6億7000万人が署名したといわれています。

平和への意識が高まる中、1960年、日本政府はアメリカと新安保条約を締結しました。
1951年に結ばれた旧安保条約は当時の日本が置かれた状況をかんがみて、日本の安全をアメリカ軍に委ねる、アメリカにすれば保護協定的な性格のものでした。また日本にとっては、結果として、その間に経済復興を遂げることができたという意味を持つものでした。

新たな安保条約は、アメリカ軍に基地を提供するだけでなく、日米共同防衛を義務付けたことが大きな改定ポイントでした。
しかし、この条約は国民の大きな反発を招きます。

戦後15年が過ぎたとはいえ、まだまだ戦争への拒否感を強く持つ国民が多く、反対する国会議員や労働者、学生、市民らが参加し、日本史上空前の規模の反対運動がおきました。
反対運動は最大で580万人のストライキ、13万人の国会請願デモにふくれあがり、警官隊との衝突では東京大学の女子学生、樺美智子さんが亡くなっています。

大きな反対運動がおきましたが、最終的には安保条約は改定されました。
アメリカ軍の基地問題、ひいては日本の安全保障問題は今も国民にとって、大変関心のあることです。その最初の枠組みができた年、1960年は日本にとって歴史的な年になったといえるのではないでしょうか。

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