100年の歴史と女性たちDECADE⑫
【1971年(昭和46年)~1980年(昭和55年) 】

~ トレンド ~

この時代の主な出来事

◎第二次ベビーブーム
◎沖縄返還
◎オイルショック
◎日中平和条約

女子大学生や、OLたちが、軽井沢(長野県)や清里(山梨県)を雑誌片手に旅行する、そんな光景が見られたこの頃。
手に持っていたのは1970年に創刊された「an‘an」や1971年に創刊された「non-no」といった女性向けの雑誌です。
この二つのファッション雑誌は、たくさんのカラー写真で旅行特集を組み、「アンノン族」と呼ばれた女性たちは、その特集で紹介された観光地での旅を楽しみました。

修学旅行や団体旅行に始まった日本人の旅行は、団塊世代とともに変化を遂げます。
彼らが若い頃、1970年前後には卒業旅行や海外旅行が、社会に出てからは職場の慰安旅行、家族を持ってニューファミリーと呼ばれた1970年代半ばには家族旅行がブームとなりました。

ファッションといえば、当時女子大学生のお気に入りは、「ニュートラ」と呼ばれるスタイル、3つボタンのブレザーにボタンダウンのシャツ、足下はコインローファーが基本でした。
ソレにエルメスやグッチといった海外の高級ブランドをコーディネイトした、お嬢様ファッション、それがニュートラでした。

「ハマトラ」というスタイルも流行りました。コレは神戸に端を発したニュートラが横浜風にアレンジされたもの。

また、ファッション界では日本人デザイナーが世界中で活躍をしていました。
「イッセイ・ミヤケ」「ケンゾー」らが次々とコレクションを発表し、注目されました。

高級ブランドだけではありません、ジーンズやトレーナーといったカジュアルなスタイルも人気を呼びました。当時、日本への文化の風は、全て西海岸から吹いてくると言われていた時代。アメリカで流行ったテニスやサーフィンを、日本で楽しむ若者が日常に取り入れました。
ジーンズといえば、膝から裾に広がったデザインで「足が長く見える」と話題だった「ベルボトム」。今年流行したワイドパンツの変形として最近またみかけるようになりましたね。当時の女性たちはこれにブーツやハイヒールを好んで合わせ、足長効果を実感していました。

髪形にもアメリカの影響が大きく現れます。
ハリウッド女優、ファラ・フォーセットで一躍有名になったサーファーカット。ロングのハイレイヤースタイルのことで、全盛期には歩いている若い女性のほとんどがこの髪型だったともいわれています。

お嬢様ファッションがニュートラなら、その対極をなしたのが「パンクファッション」です。

ロンドンに生まれたパンク・ロック

その代表といえばセックス・ピストルズ。彼らのスタイル“パンクファッション”鋲を打った革ジャンに、引き裂かれたTシャツやジーンズ、逆立てた髪といった過激さが人気を呼びました。

パンクが生まれたのは、世の中が不況になり、高度経済成長が終わりをつげて低成長の時代へとむかっていた時でした。
社会に対する不満や怒りを過激に表現するパンク音楽のスタイルが、不況にあえぐ当時のイギリスの労働者階級に広く受け入れられたと言われています。

不況といえば日本にもその波が…。
日本の輸出をささえてきた1ドル360円という固定為替レートがなくなり、変動相場制に移行したことで、突然のドルショックが起きました。円高不況です。
そこに中東戦争が勃発し、オイルショックが重なり、省エネや節約ムードが高まる中
「レジャーは不要不急」という声が聞こえるようになりました。

オイルショックでトイレットペーパー買占め騒動が起き、ガソリンスタンドは休日閉店、深夜テレビ禁止、ナイター短縮、ネオン規制となんでもなんでも規制、規制、とてもレジャーを楽しむような気分にはなれませんよね。

それでも楽しみを見いだしたいという気持ちからでしょうか、「安近短」安くて、近くて、短い期間でレジャーを楽しもうという言葉が生まれたりもしました。

少し遡りますが
1970年(昭和45年)に大阪で日本万国博覧会が開催され、日本全国から人々が大阪へ押し寄せました。その多くは万博をきっかけに整備が進んだ鉄道を利用し、新幹線はもちろん臨時列車も増発されました。

万博が終わると、国鉄(現在のJR)は、この流れを続けていくために、「ディスカバージャパン」というキャンペーンをうちだします。キャッチフレーズは「美しい日本と私」

対象は若い女性で、ポスターもイメージ重視のフワッとした風景が多く、撮影場所などを記しないことで、どこか遠くへ自分探しの旅にでかけたくなるムードを作りだしてたように思います。

神社仏閣などの観光地をめぐるこれまでの旅から、ちょっと変わった体験、例えば、
僧坊に宿泊するとか、そんな旅が関心を集めました。

冒頭に紹介したan’anやno-noといったや女性誌が取り上げたことで、相乗効果となったようです。

国鉄は1972年(昭和47年)に山陽新幹線を開通させ、1975年(昭和50年)には博多まで延長しました。

キャンペーンとともに始まった国鉄提供番組「遠くへ行きたい」は、
永六輔さんが一人で日本各地を訪れ、その土地を紹介し、地元の人と触れあうという番組で
番組の人気とともに、番組のテーマソング「遠くへ行きたい」も大ヒットしました。

ペンションという宿泊スタイルも人気となりました。オシャレな洋館に泊まり、洋食を食べ、二段ベッドやソファーベッドで寝て…ベッドにはパッチワークのベッドカバー、形態を言えば小規模な民宿ですが、そのオシャレなスタイルが女性たちの人気を呼び、軽井沢、清里はペンション村として一躍有名になりました。

1978年(昭和52年)には、山口百恵さんが歌う「いい日旅立ち」をテーマソングにさらにキャンペーンを展開した国鉄。観る、食べる、歩く、買うなど、様々な楽しみを満喫しながら、女性たちは日本中を旅しました。

同じ年、成田空港が開港します。
1964年(昭和39年)に海外渡航が自由化されてから10年以上がたち、ますます増大する航空需要に対し、羽田空港の処理能力の限界が見えていたため、地元住民の反対など、さまざまな問題を乗り越えて開港にこぎ着けました。

1980年代、時はバブル時代へと向かいます。

海外旅行は急増し、日本国内の旅を満喫した女性たちが、こぞって海外にでかけるようになるという話は、次回のトレンドで!!

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