100年の歴史と女性たちDECADE⑧
【1951年(昭和26年)~1960年(昭和35年) 】

~トレンド~

この時代の主な出来事

◎日本の主権回復(1952年発効 サンフランシスコ講和条約)
◎国際連合加盟(1956年 日ソ共同宣言をへて実現)
◎皇太子結婚(1959年 ミッチー・ブーム)

戦争が終わっても世の中はしばらく混乱が続いていました。それでも1950年代に入って、日本が連合国とサンフランシスコ条約を結び、主権を回復したことや、GHQが廃止され、アメリカの占領体制に終止符がうたれたことで、国内も明るい、新しい時代を築くという雰囲気がでてきていました。

主権が回復するということは、国として認められるということですから、海外との取引も活発となり、経済も復興の兆しを見せ始めていました。そこに起きた朝鮮戦争の影響で日本は特需ブームに沸き、それが経済発展のあと押しをしてくれました。

人々の生活も戦後の生活難から少しずつ立ち直りはじめました。
政府の経済政策もうまくいったのでしょうね、人びとの実質所得も増えました。

1956年の経済白書には「もはや戦後ではない」という記述があります。この言葉は当時の流行語となりました。

流行といえば、戦後の日本は、GHQの影響もありましたが、アメリカからいろいろな文化やファッションがはいってきていました。

アメリカのファッションといえば、「アメリカンルック」が全盛でした。
もともとアメリカには、独自のファッション文化はあまりなく、ヨーロッパの模倣と言われたりしていたのですが、戦争でヨーロッパもファッションどころでなく、結果としてアメリカに独自のスタイルが生まれました。

それがアメリカンルックです。女性も働くという観点からか、シンプルで機能的・活動的なスタイルが多く、例えば、少しいかり肩にウェストをしぼったトップ、それにセミ・フレアのスカートを合わせたスタイルなどが特徴的でした。その後、50年スタイルと呼ばれるものですよね。

日本では、パリのファッションも注目されるようになっていました。

アメリカ一辺倒から抜け出し、フランスのコレクション情報が直接入ってくるようになったこともあるのですが、ファッションショーなども開かれるようになっていました。
1952年には、大阪の阪急デパートで国内メーカーによる日本初の下着ショーも開催されたりして、デザイナーやファッションモデルという新しい職業が注目され始めていました。

ショーといえば、クリスチャン・ディオールのショーも開かれました。

戦後まもなく、「ニュールック」を発表して人気となったデザイナー、ディオールは、1950年代に入ってもその人気は高く、毎年のように新しいシルエットを発表していました。

そのディオールが発表した最初のスタイルがHライン、どんなスタイルかというと「平らなバストにフィットしないウェスト」、それってどうなのとは思うのですが、次に発表されたのがAライン、スカートが広がったものです。そして裾が細くなったYラインと、どれもスタイルがアルファベットのイメージだったことから、アルファベットラインと呼ばれました。
当時、Aラインのドレスに使われた「鮮やかな赤」はディオールレッドと呼ばれて、今日まで伝えられていますね。

こうしたスタイルで世界的にも大成功を収めたディオールでしたが、
日本でも大人気となりました。

ディオールが最初に発表して人気となったニュールックは、「伝統的な長いスカートに、豊かなバストとヒップ、細いウェスト」というグラマラスなスタイルが特徴的でしたが、この時代になると、胸や腰が小さいスレンダーなスタイルへと転換期を迎えていました。

当時、映画がヒットして、注目されていた女優のオードリー・ヘップバーンは、その少年っぽい体型がディオールのデザインが変わるタイミングと同じ時期だったもあって、より注目されました。

ファッションの流行は映画からも生まれてきました。

映画の中で俳優が身に着けていたファッションや生活スタイル、いわゆる「スクリーン・モード」がファッションと流行色のお手本になったのです。

当時のファッションリーダーは、男性は、映画「理由なき反抗」のジェームス・ディーン、リーゼントヘアにリーのジーンズ、黒の革ジャン姿が印象的でした。若者たちの間では、ロックンロールとジーンズがはやっていましたが、その中で女性にはポニーテールやサーキュラースカート、水玉模様が人気だったようです。

そして女性のリーダーといえば、オードリー・ヘップバーン。
映画「ローマの休日」や「麗しのサブリナ」などで有名ですが、ヘップバーンが映画の中で身に着けていた「フレンチスリーブ」や「サブリナパンツ」はとってもキュートで、女性たちの人気でした。ヘップバーンカットと呼ばれた髪型もはやっていました。

日本映画もヒットしました。ラジオドラマから始まり映画化された「君の名は」もその一つです。
この映画は、昨年ヒットしたアニメ映画とは関係ありませんが、この映画から流行したのが、役名から名付けられた「真知子巻き」です。主役の女優がストールを肩からそのまま耳や頭まで巻いた姿が、当時の女性の感覚にはまったのでしょうか。

スクリーンモードといえば、色も注目されました。

フランスのジェームス・ディーンと呼ばれた二枚目スター「ジェラール・フィリップ」が出演したスタンダール原作の映画「赤と黒」やモイラ・シアラー主演のアメリカのバレー映画「赤い靴」、スキー選手のトニー・ザイラーが出演した日独合作の「黒い稲妻」がヒットしたことから、赤と黒が注目されました。いわゆる当時の流行色ですね。

また、「モーニングスターブルー」という色もヒット流行しました。アメリカ映画の「初恋」のヒロイン、モーニングスターを演じた女優ナタリー・ウッドが着ていたドレスの「緑がかった青」色のことです。それをアパレルメーカーが「モーニングスターブルー」と命名し、婦人服を中心にキャンペーン展開したことで一気にブームとなったようです。

そしてこの時代のラストを飾るのが、ミッチーブームです。
皇室人気は今もかわりませんが、この時代のミッチーブームは、人びとの生活も変えるほどの人気でした。

皇族でもなく、華族でもない、いわゆる民間から天皇家に嫁いだ正田美智子さん、その美智子さんと当時の明仁親王のテニスコートでの出会い、「自由恋愛」という言葉が世の中を駆け巡りました。

それを世の中に広めたのが、当時普及し始めていたテレビ放送と、創刊されたばかりの女性週刊誌をはじめとする週刊誌ですね。メディアの報道競争も加わって、世紀のご成婚は大きな話題になりました。

テニスコートでの出会いとあって、そのとき美智子さんが着ていた白地のVネックセーターやヘアバンド、カメオのブローチなどはミッチースタイルと呼ばれました。
なかでもヘアバンドはミッチーバンドなどと名付けられ、女性たちの人気となりました。

景気もよくなっていたのでしょう。世の中が、ミッチーブームにわいたころには、初めて一万円札が発行され、「三種の神器」と呼ばれた白黒テレビ、冷蔵庫、洗濯機が人びとの生活に浸透し始めていたのです。いわゆる家電ブームですね。インスタントラーメンがうまれたのもこのころでした。そうなると女性の家事労働の負担も軽減されますよね。

生活に余裕ができれば余暇が生まれます。
レジャーという言葉は流行語になりました。

東京タワーも完成し、テレビ時代が幕を開けようとしていました。

ご成婚パレードがテレビ中継されることもあって、人びとはそれを見るためにこぞってテレビを買い求めました。

テレビからはCMが毎日流され、あらゆるものが紹介され、人々の消費意欲を刺激します。時代は、大量消費時代へと向かっていきました。
高度経済成長時代がそこまでやってきていました。

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