100年の歴史と女性たちDECADE⑤
【1941年(昭和16年)~1950年(昭和25年) 】

~ 時事 ~

日本の本土が戦場として巻き込まれた太平洋戦争。その戦争の始まりと終わり、まさしくこの戦争を抜きにして語れない時代であり、女性たちも戦争という言葉に翻弄された10年であった。1941年12月、日本海軍が真珠湾を攻撃、さらに陸軍はマレー半島に上陸し、日本は米英に宣戦布告。2年まえ、ヨーロッパを戦場に始まった第二次世界大戦が世界中に広がることになった。

人々の暮らしは、すでに日中戦争の影響で物資が不足し、インフレが進むなど、厳しいものになっていましたが、太平洋戦争(第二次世界大戦の一局面で日本とアメリカなど連合国との戦争)が始まったことにより、ますます苦しくなりました。
石油は輸入されず(アメリカの禁輸政策)、軍需物資に生産能力が集中することで生活物資が逼迫します。さらに働き手が兵員として召集されたことで、労働力不足が発生しました。

その影響は農村に顕著でコメの生産力も落ちます。一方都市部でも、工場の労働力不足がより深刻となります。戦争を続けるためには多くの軍需物資が必要です。

1944年(昭和19年)、政府は学徒勤労動員令を公布し、学生を軍需工場などに動員。この時同時に公布されたのが、女子挺身勤労令でした。12歳から40歳までの未婚女性は強制的に軍需工場などで働くことが義務付けられ、それに違反すると罰則の対象となったのでした。

彼女たちは「女子挺身隊」と呼ばれました。その前身は、すでに1941年(昭和16年)、勤労奉仕隊というものが結成され、男性に交じって16歳以上25歳未満の独身女性が対象となっていました。強制ではありませんでしたが、時代を考えれば、断ることができないのは自明でしょう。女子の工場への動員が強化され、それに伴って、これまでは条件改善の方向に改正されてきた工場法が再び、労働時間の制限が緩和されるなど以前の状態にもどることになりました。敗戦の色が濃くなってきた1945年、国民勤労動員令が出され、男女を問わず国民こぞって動員をかけ、本土決戦に備えるために国民義勇隊を結成するというものでした。このころには、徴兵を猶予されていた学生もその猶予期間が短くなり、さらに徴兵年齢が19歳に引き下げられるなどによって、若くして戦場へと送り込まれていきました。え、それなら女性も兵役の義務はあったの?と思う人もいるかもしれません。第二次世界大戦中、イギリスは唯一女性を徴兵していましたが、戦闘行為につけるというよりは、後方支援や従軍看護婦としてでした。日本でも当時議論に上ったことはあるようですが、徴兵は見送られたようです。

さて、戦場へ送られた男性に代わって、その労働力不足を女性が補うという形で女性の動員が進んだわけですが、それはすべて未婚女性が対象でした。日本の伝統的概念ともいえる「家を守るのは主婦」、だから主婦は対象からはずされたのであって、未婚女性は工場で、既婚女性は家庭で「銃後を守る」ことになりました。社会の都合で、女性は男性と同じように扱われたかと思うと、まったく別の論理で動かされる。この男女不平等性は日本社会に延々と続いてきたものでしたが、それが大きく変わることになります。日本の女性に平等な権利や立場をもたらしたのは、皮肉にも敗戦だったのです。

1945年8月 太平洋戦争終戦。男女平等の話に入る前に、この戦いは女性たちに何をもたらし、何を奪っていったのでしょう。
奪われた最大のものは、夫です。終戦時、40万人とも50万人ともいわれた戦争未亡人。一家の働き手を失った女性が自分自身で、子供や親を抱えて、戦後の時代を生き抜くのはとても大変なことだったでしょう。それでも女性たちは必死で働こうとしました。しかしそんな女性たちに降りかかってきたのが「解雇」です。労働力不足のために、女子挺身隊や国民総動員体制のもと、工場などで働いていた女性たちに対し、復員してきた兵士のために、その職場を明け渡せということです。当時の新聞におよそ180万人の女性が復員兵士に職場を提供したという記事があります。

また、都会の女性には疎開が奨励されました。占領軍兵士の女性への暴行を恐れたためです。占領軍兵士の暴行や略奪については、主に、朝鮮や満州から帰国してきた人たちの口から伝わっていました。日本の敗戦とともに、国境を越えて侵入してきたソ連軍、勝利者となった中国軍、抑圧されてきた朝鮮の人たち、これまでと立場が逆になったのです。

朝鮮や満州からは続々と兵士や現地の国内に引き上げてきます。多くの女性もまた彼らとともに帰国しました。その女性の多くはあの満蒙開拓団として海を渡り、大陸の花嫁として、人生を過ごしてきた人たちです。彼女たちは、戦争が終わったとき、これまでの支配的立場から敗戦国の人間として厳しい条件のもとにおかれました。日本へ帰国がいつになるかわからない、その間にもいつ災難が自分の身にふりかかるかわからない。しかも夫は兵隊にとられて助けを求めることもできない。自ら、暮らしてきた土地を捨て、身の回りのものだけをもって、子供の手をひき、祖国日本を目指したのでした。その途中にどれだけ悲しいことがあったのかは、これまでも多くの新聞や書籍に記されてきました。

日本へ向かうその途中、不幸な事故ややむを得ない事情でわが子と離れ、家族ばらばらになった人たちもいます。何らかの事情で大陸に取り残された子供たち、それが残留邦人と呼ばれる人たちです。大陸の花嫁に始まり、戦争に翻弄され、今この時代にも歴史は引き継がれています。そして、ようやく日本にたどりついた女性の口からもたらされた悲劇、自らが受けた数数の暴行、戦争というものが引き起こす恐ろしさ、負けた国民がどんな仕打ちにあうのか。当時の日本がこれからやってくる占領軍に対して、さまざまな恐怖を抱いたのも当然かもしれません。そのためでしょうか、短い期間でしたが、戦後、国内に占領軍向けの慰安施設が設置されました。慰安婦が募集され、東京を始め全国で数千人の日本人女性が働いていたといわれています。

頭文字を並べて、RAA(Recreation and Amusement Association)と呼ばれました。そのまま訳せば余暇・娯楽協会ですが、実態は売春婦を置いた慰安所でした。内容を知って応募を断った人も多かったようですが、それでも数千人が働いていたといわれますが、強制でなく、違法性もなく、給与などもきちんと支払われるなど、その高待遇が、戦争未亡人の生活を助けたという一面もあります。この施設の設置をめぐっては、1998年(平成10年)に国会で、当時政府が全国の警察に設置を指示したとされる文書の保管をめぐって議論が行われました。この慰安所は、しばらくして閉鎖されましたが、一部地域ではその場所が形態を変えて、遊郭として残ったり、キャバレーなどの風俗営業として、現在につながる歓楽街の最初となりました。
そんなスタートとなった、戦後の日本人女性のための組織が、敗戦後10日目に結成されました。戦後対策婦人委員会です。

このDECADEの第1回で紹介した、新婦人協会を設立したメンバーの一人、市川房江さんらが中心となって、戦前から各界で活躍してきた女性らが集まり、占領下における女性問題、特に男性と同じ参政権を政府や政党に要求しました。

そして終戦の年の1945年12月、男女平等を謳う日本国憲法公布の前に、当時の政府により普通選挙法が改正され、20歳以上の男女に平等な選挙権が認められました。

そして翌1946年(昭和21年)、戦後第一回衆議院選挙で、初めて婦人参政権が行使され、39人の女性議員が誕生しました。
当時の有権者数は約3,687万人、そのうち女性は2055万人、戦争で多くの男性が亡くなったためです。投票率は女性が67%、男性は78%でした。

ちなみにこれは大日本帝国憲法下での最後の選挙となりました。

これを機に女性を取り巻く環境は一気に変わっていきます。
1947年
3月 教育基本法公布  教育の機会均等、男女共学が認められる
4月 労働基準法公布  男女同一賃金、産前産後の有給休暇や生理休暇が認めらる
5月 新日本国憲法公布 男女平等、婚姻・離婚の自由も認められる。
10月 国家公務員法公布 女子公務員の資格が認められる。

注目はやはり日本国憲法です。憲法には、新たに女性の権利が書き加えられました。
第24条 【家族生活における個人の尊厳と両性の平等】です。
この条項を起草したのは女性です。ベアテ・シロタ・ゴードンさん。戦前の日本で長く暮らし、当時の日本女性には権利が全然なく、その苦労を詳しく知っていたから、女性にもいろんな権利を与えたいという気持ちで草案づくりを始めたとインタビューで語っています。あらためて24条を読み直してみます。
① 婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
② 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。

大日本帝国憲法では、婚姻は戸主同士の合意によって成立しましたが、新憲法では、「婚姻は両性の合意のみに基づ」く、と180度違う規定となりました。また、家族の尊厳と両性の平等が規定されたことにより、男性と女性、長男とそれ以外の子どもも平等となりました。これが、男女の平等を保障するものとなりました。

婚姻といえば、終戦直後の日本の人口はおよそ7200万人。女性が男性を420万人上回り、15歳から49歳の女性は配偶対象の男性より647万人多かったという数字が残っています。戦争未亡人の数もかなりに上ったとみられます。戦争が始まったころは、未亡人の相談相手に厚生省が女性指導員を各地に配置していましたが、その方針は再婚は35,36歳まで、ただし極力国家に命を捧げた主人の英霊を守ることが日本婦人の理想としていました。終戦前に、雑誌の戦争未亡人特集で再婚できるものはするのがよいとしたことから、その雑誌が陸軍の怒りを買ったという話もあります。

しかし、敗戦を機に、状況は変わりました。
例えば東京都庁、従来は職場結婚はタブーでしたが、職場結婚を公認、継続勤務を認めました。京都では戦争未亡人が再婚のため、まだ復員してきていない夫を相手に離婚訴訟を起こしました。一方、日本に駐留していたアメリカ軍兵士と恋に落ちて、結婚し、海を渡ってアメリカに移住した女性もいました。当時は、軍や軍に関係する施設で働く女性も多く、アメリカ人と出会うのは珍しくなかったのでしょう。戦争花嫁と呼ばれる彼女たちの数は3~4万人に達するといわれています。そうした女性をとりまく環境は、世界的にも大きく動いています。

1945年(昭和20年)日本の敗戦の年に戦前の国際連盟に代わって国際連合が成立。同じ年に、パリで世界婦人会議が開かれ、国際民主婦人連盟が結成されています。また翌年には、人権委員会の下に婦人の地位小委員会が設立され、4か月後には人権委員会と同等の立場に格上げされ、婦人の地位委員会となるなど、世界的にも婦人の地位が尊重され、女性の人権に関する取組が始まった時代でした。日本でも1949年(昭和24年)以来、4月10日に始まる第一週を「婦人週間」と定めて、女性の地位向上のための啓発活動を全国的に展開しました。4月10日は女性の参政権が初めて行使された日です。

このように、この時代は女性の権利拡大の時代でした。そしてもう一つ忘れてならないのがこの時代が次の時代、そしてまたその次の時代にと大きく影響を与えたことがあります。

ベビーブームです。
戦争から兵士が戻った家庭、戦争の終結にほっとした家庭、そんな人たちが子供をつくったため、前後の世代に比べて極端に出生数が増えました。第一次ベビーブームとされる1947年~1949年の間は、出生数が毎年約270万人、最近は100万人ほどであることから考えても、いかに多くの子供が生まれたかということがわかります。人口の急増にあわてた政府は、1949年人口問題審議会を設置、「産めよ殖やせよ」といっていた政府が一転して、人口抑制策を打ち出します。その一つが優生保護法です。人工妊娠中絶の条件を緩和し、避妊薬の製造を許可するなど産児制限を協力に推進したのです。その結果、1950年には、出生数は230万人あまりに減少しました。女性のためといういい方もありますが、そのときの政府の都合のいいように、女性の立場が変遷しているともいえないでしょうか。

この第一次ベビーブーム世代と呼ばれる人たちが、日本の経済を引っ張り、消費を下支えするようになるのですが、それまでにはもう少し時間がかかります。

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