100年の歴史と女性たちDECADE⑩
【1961年(昭和36年)~1970年(昭和45年) 】

~トレンド~

この時代の主な出来事

◎1960年 カラーテレビ放送が始まる
◎1964年 東京オリンピック開催
◎1966年 ビートルズ来日

モデルの小川ローザのミニスカートが、巻き起こった風で巻き上がり、白い下着がちらりとのぞき・・・「オー・モーレツ」

当時、話題となった丸善石油のCMです。このCMの影響で、当時の子供たちの間にスカートめくりが流行ったともいわれています。小学校で男子児童が「オー・モーレツ」と声を上げながら女子児童のスカートをめくって回っていた時代でした。

1960年代、ミニスカートは日本でも大流行しました。
もともと、ミニスカートは、街からうまれたファッション、いわゆるストリートファッションとして、イギリスのデザイナー・マリークワントが、若者向けにスカートの丈を短くして売り出したのが始まりです。ミニという言葉は、イギリスの車「Mini」からとったとのこと。

同じ時期、フランスではクレージュもミニスカートをコレクションで発表しましたが、マスコミには取り上げられたものの、高級仕立服「オートクチュール」の世界では、酷評されたそうです。それでも、当時のスーパーモデル、ツイッギーがミニスカートをはいたことで、ブームを呼びました。

1967年、ツイッギーは日本にやって来て“ツイッギー旋風”を巻き起こしました。

ツイッギーというのは、「小枝」という意味、彼女はその名の通り、小柄で華奢な体型でした。来日記者会見での膝上30センチのミニスカート姿は注目の的となり、日本では街を歩く女性の姿がミニスカートばかりとなりました。

1960年代、ファッション界は、これまでのお金持ちが好んで選んだオートクチュールからプレタポルテと呼ばれる高級既製服へと移り変わっていきました。それまでは、ディオールのニュールックに象徴されるラインの時代で、多様なシルエットがその美しさを競っていました。
時代は女性がどんどん社会へでるようになり、そのファッションにも機能性が求められるようになりました。

機能的でシンプルなデザインの流行は、それだけで美しい、そんな考え方も広まりました。

海外渡航の自由化が進んではいましたが、まだまだ日本のデザイナーがパリで学ぶというのは先の話。
そのため当初は、海外からの輸入服が中心でしたが、そのうちデザインを購入し、国内で共同で大量生産を行う、いわゆるライセンスものがつくられるようになりました。

一般の女性たちにも海外デザインによる洋服に手が届くようになったのです。

いつの時代も若者たちは変化や新しいものを求めるようです。
若者たちにとって、ファッションは与えられるものから自分で選ぶ時代になり、それがアイデンティティだと考えていました。

『パンタロン革命』という言葉を知っていますか。

イヴ・サンローランが60年代後半に女性のパンツスタイルを積極的に提案したもので、日常着としてスカートに代わる女性の基本的なスタイルにしようという意味が込められていたといいます。

パンツの特徴はストレートになだらかな線をもつシルエット、
そのエレガントなパンツ・スタイルは、初め、それほど大きな流行にはなりませんでしたが、徐々にミニ・スカートに代わる新しい女性のスタイルとなっていきました。

みゆき族と呼ばれる若者たちも生まれました。
買い物、同じファッションの仲間を求めてなど、銀座の御幸通りあたりに集まり、たむろしていました。

そのファッションは、アイビールックといわれるもので、三つボタンのブレザーにボタンダウンのシャツ、コインローファー。
女性は、白いブラウスにロングスカート、リボンベルトをしめて、彼も彼女も紙袋を手にしていました。
その紙袋には、一世を風靡したアイビーファッションの店「VAN」の大きな文字が印刷されていました。

そんな彼女たちも、オリンピックを前に(悪いことをしていたわけではなかったのですが)取り締まり対象となり、消えていきます。

彼らが生きていたその時代は、日本が高度経済成長に突入した時代です。

女性の結婚の条件として、「家付き、カー付き、ババア抜き」なんていう言葉も流行りました。家と車を所有し、姑がいないのが、若い女性が結婚相手に求める条件だといわれていました。

そしてその家には、必ずカラーテレビがあるのも当たり前の条件でした。

1960年に始まったテレビのカラー放送、人々の購買意欲をくすぐる多くのCMが流されました。先ほど紹介した「オー・モーレツ」もそうですが、高度経済成長と大量消費をCMによる購買意欲が支えていたのです。

1964年に始まる東京オリンピックを控えて、カラーテレビはどんどん普及しました。

テレビ放送がカラーになったことで、その映像が持つ影響力はより印象的となりました。
東京オリンピックでの開会式の入場行進で日本選手団が来ていた真っ赤なブレザー、今も覚えているひとは大勢いるでしょう。

その色を伝えたのがテレビならば、アメリカのケネディ大統領暗殺や、アポロ11号による人類初の月面着陸というビッグニュースもテレビが伝えました。

ニュースといえばビートルズの来日を忘れることはできません。

1966年6月、ついにビートルズは日本にやってきました。

台風の影響で飛行機の羽田到着が遅れ、日本に到着したのは明け方の午前3時39分。
世界各地でのビートルズ騒動を伝え聞いていた日本の警察は、厳重な警備体制を敷き、羽田空港とホテルや沿道に警官3万人を動員したといわれています。

そのビートルズが残した功績の一つが日本武道館でのロック・コンサートでした。

『武道館は、日本の武道の為に作られものであり、そこでロック・コンサートを行うことは武道の精神を冒とくする』といった、現在で考えられない批判が出ていたのです。

しかし、ビートルズが日本武道館で初めてロック・コンサートを行ったことで、日本武道館はロックの殿堂と呼ばれるまでになりました。
ビートルズが武道館を開放してくれたといっても過言ではないでしょう。そのコンサートは3日間で5回開催され、若い女性らで満員となりました。

1968年、日本はまさに高度成長期でした。GNPは当時の西ドイツを抜いて、アメリカに次ぐ、世界2位。新幹線や名神高速が開通、東京オリンピック開催とともに大型工事がどんどん進められました。

世はモータリゼーションの時代、車は若者たちにとってもなくてはならないものとなり、デートに欠かせないものとなりました。
彼の運転する車でドライブにでかける女性たち、彼ら、彼女らが出かけた先は、ボーリング場やゴルフ場、遊園地でした。

働く女性たちも余暇を楽しむ余裕がうまれていました。
当時、皇太子様の御成婚をうけて、夫妻の出会いの場として注目されたテニス、そしてお二人で楽しまれたというスキー、そういったスポーツが大流行しました。

海外旅行の自由化と合わさって、世はまさにレジャーブーム。
女性たちは、人生を大いに楽しんでいた時代でした。

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