100年の歴史と女性たちDECADE⑭
【1981年(昭和56年)~1990年(平成2年) 】

~ トレンド ~

この時代の主な出来事

◎東京ディズニーランド開園
◎グリコ森永事件
◎日航機墜落事故
◎男女雇用機会均等法施行
◎バブル景気
◎天皇崩御

1980年代の始め、女子大生のタレント化が注目されました。
例えば、土曜日の授業が終わった後、フジテレビのスタジオに向かう女子大生がいました。
深夜の生放送、オールナイトニッポンに出演するためでした。

女子大生ブームの火付け役といわれたこの番組は、番組のアシスタントとして、女子大生を出演させて人気を集めていました。

その多くはモデルやタレントとしてすでに活躍している人でしたが、メンバーには素人の女子大生も含まれていて、彼女たちも人気が出ると、タレント活動を始めるようになります。

このころ、女子大生は、どこへいっても人気でした。

昨今、合コンの参加費は男女で割り勘などという言葉を聞くことも増えましたが、
当時の女子大生は、同じ学生よりも社会人から多くの声がかかりましたから、
財布を開くことなどありません。
合コン相手で人気だったのは、キャリア官僚、それも通産、大蔵、外務など。医者、弁護士、パイロット、そして証券マン、商社マンを中心とした企業のビジネスマン、いわば若きエリートたち、もちろん帰りはタクシー付き。
誰でもがそうであったとは言いませんが、「財布を開く回数は美醜の差」なんていう驕った言葉もあったくらいでした。

そんな女子大生の間で人気だった雑誌「JJ」
女子大生モデルも多く、彼女たちは高級ブランド品に身を包んで、雑誌のページを飾りました。

東京ディズニーランドがオープンしたのもこの頃です。
今も絶大な人気を誇るディズニーランドですが、オープン当初から若いカップルのデートスポットとしてにぎわいました。
近隣に高級ホテルが完備していたこともあって、お泊りデートに最適と言われ、彼氏が運転する車でディズニーランドへ行って、そのままお泊り。
時にはちょっとリッチに、都心にもどって赤プリに宿泊なんていうのが最高といわれていました。
もちろん友達同士で遊びにいく女性たちもいましたが、(モテないみたいでちょっとかっこ悪いかな)なんて思っていた女子も多かったようです。

東京ディズニーランドの成功や、同時にオープンした長崎オランダ村の人気もあって、各地でテーマパークが新規事業として注目され、日光江戸村、スペースワールド(2018年1月1日閉園)、東京セサミスペース(2006年12月31日閉園)サンリオピューロランドなどが80年代後半から90年にかけて次々とオープンしました。
 
同じ頃、任天堂がファミコンを発売。
ファミリーコンピューター、いわゆるファミコンはあっという間に家庭に普及し、テレビゲームという新しい市場が生まれました。任天堂は続いてゲームボーイも発売し、ゲームの世界は家の中だけでなく家の外でも楽しめるものとなり、さらにゲーム市場は拡大していきます。

ファッションも時代の影響を受けていました。

1970年代を代表するアイドル、山口百恵さんが三浦友和さんと結婚して芸能界を引退、
80年代はアイドルの顔ぶれが大きく替わりました。
この時代を引っ張ったアイドルといえば松田聖子さん。彼女の髪型は聖子ちゃんカットとして大流行しました。

原宿の代々木公園近くの歩行者天国では、大きな音を出すラジカセに合わせて踊る若い女性の姿が。「竹の子族」と呼ばれた彼女たちは、原色系の派手な衣装をまとい、集団で、ディスコミュージックに合わせて踊っていました。

DCブランドが広がったのもこの頃です。
デザイナーズブランドとキャラクターズブランドの総称で、キャラクターブランドとは、デザイナーがデザインから販売までトータルでブランドイメージ(キャラクター)を打ち出したもので、デザイナーズブランドは、デザイナーの個性を前面に打ち出し、高級な素材を用いたため価格も高く、ブランド名とデザイナー名が一致することが多いのが特徴。
代表的なものには、川久保玲さんの「コム・デ・ギャルソン」、高田賢三さんの「KENZO」三宅一生さんの「イッセイ・ミヤケ」などがありました。

若い人たちの間でも、デザイナーズブランドを買って身につけるのが普通。DCブランドを来た若者が街にあふれていました。

このDCブランドからさらにシルエットをシェイプしたスタイルが、いわゆる「ボディコン」です。ボディコンとはボディ・コンシャルスの略語で、体に密着する素材を利用し、ボディ・ラインを強調した服装。

ボディコンといえば、ワンレンというくらい、髪型もまたそれに合わせて流行りました。
ワンレングスカットの略で、ストレートで長めの髪を一定の長さで切りそろえた髪型です。
ワンレンボディコンというワンセットにした言葉も流行し、ディスコブームの中、お立ち台の女性に好まれたスタイルとして知られています。

そのディスコブームを牽引したのが豪華絢爛な内装で知られた高級ディスコチェーン、「マハラジャ」です。

その1号店は1982年に大阪・ミナミにオープン、その後1984年に東京の麻布十番にオープンした「MAHARAJA TOKYO」が社会現象と呼ばれるほどの大人気を擁しました。

最盛期には全国におよそ60店舗を展開、ハワイのホノルルにまで進出し、「お立ち台」「服装チェック」「黒服」などのディスコ文化を生み出しましたが、バブル崩壊とともにすべて閉店しました。

ディスコで話題になったのが、「ドレスコード」です。
ジーンズ姿や男性同士の入場は禁止され、店が客を選別しました。そのため男性が店の前で女性客に声をかけ、一緒に入ってもらう姿もよく見かけられました。
外国人モデルや芸能人はフリーパス、彼らのためにVIPルームも設けられていました。

フリーパスだったのは、芸能人らに限りません。

マハラジャに限らず、RADIOCITYやゴールドといったディスコは人気を競い合い、高級ブランドで着飾った若い女性をフリーパスで入店させ、VIPルームへ案内。自分もそうなりたいと若者たちの間で話題になることを狙った、いわば店のブランド化です。

「MAHARAJA TOKYO」があった麻布十番は、六本木駅から歩いて10分以上かかったため、ディスコに高級車で乗り付ける、タクシーで来る、徒歩で、といった貧富の差を強調する形となりました。街には会社があふれ、特に入手しやす価格帯であったBMWの3シリーズは、「六本木のカローラ」と呼ばれたほど。

車で差がついただけではありません。女性たちをエスコートした男性のなかには、「みつぐ君」「アッシー君」と呼ばれる人もいたとか、ちょっとかわいそうですね。

そして、「お立ち台」。フロアの隅に置かれたスピーカーに興奮した客がよじ登って踊り出したのが始まり、東京マハラジャのオープンのときには、専用のお立ち台が用意されたそうです。

その後、扇子をもったボディコン姿の女性たちがお立ち台で踊ることで人気を呼んだ、ジュリアナ東京が生まれるのは、1990年代に入ってのことです。

また、MAHARAJAは2000年代以降、各地で復活したのですが、当時の面影は無く、当時を知る男性や女性が懐かしさから集まっているようですが、なかなか、あの時代の様には展開しないようで、高級ブランドを身につけてディスコで踊る、その姿はバブル時代の象徴といえるのではないでしょうか。

80年代後半におきたバブル景気は、プラザ合意に始まった円高不況への対策として低金利政策がとられ、内需主導が図られたことから生まれました。
株価や土地の価格が高騰、土地と株は下がらないという神話がうまれるほどで、企業も個人も財テクに走りました。

日本企業はアメリカのロックフェラー・センターを買収したり、高級絵画を購入、ベンツや国産車のシーマなど高級車も飛ぶように売れ、「シーマ現象」という言葉も生まれます。
日本社会はバブル景気を迎えていました。

内需拡大のため、公共投資も進められ、東北新幹線や上越新幹線の開通を始め、中国自動車道、東北自動車道など、鉄道や高速道路が全国に広がりました。
青函トンネルや瀬戸大橋も開通し、日本中が鉄道や道路でつながりました。

それに合わせてリゾート法(総合保養地整備法の通称)が整備され、全国各地でリゾート計画が生まれ、ゴルフ場やスキー場がつぎつぎとできては人気を集めていました。

人も社会も浮かれていたバブル時代、そんな80年代後半、その最後の年に昭和天皇が崩御されます。

時代は平成へと変わります。

バブル崩壊はもうすぐそこまできていました。

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