100年の歴史と女性たちDECADE⑬
【1981年(昭和56年)~1990年(平成2年) 】

~ 時事 ~

女性の社会進出が幅広い分野に広がりました。それに伴い法律面での整備も行われました。
女性の地位向上にとって、大きな一歩となる男女雇用機会均等法が生まれた時代でした。

1981年(昭和56年)、神戸商船大学が女子学生に門戸を開きました。女子の受験が認められたのです。実際もうほとんどの大学では女子の受験が認められていました。では、どういう意味を持つのか、この商船大学の決定をもって、すべての国立大学で女子の受験が認められたことになったのです。女子教育の機会均等という意味でのメルクマールでした。

思い返せば、この連載でも触れましたが、20年前は、「女子学生亡国論」がメディアを賑わせていました。当時は女性に対する就職の門戸は開かれていず、大学に進学しても就職できず、結局花嫁になるしかなかったという時代でした。

そのために、「文学部は女子大生に占領された」という、とんでもない考えが大学教授の口から出たりしていたのでした。

この年、「女子学生亡国論20年目の回答」というイベントが開かれ、大勢の参加者を集めました。

その場では「女性が学ぶことは亡国ではない」という意見もだされ、それを裏付けるかのように、航空業界では女性のチーフパーサーや管制官が生まれたり、テレビ局や新聞社の女性記者が日本ジャーナリスト協会の賞を受賞するなど、女性の活躍の場は広がっていました。

女性の活躍の場が広がることで、女性の勤労意識は変化したのでしょうか。
1983年(昭和58年)の総理府による「勤労意識に関する世論調査」によれば、女性が望む就業のあり方のトップは、「結婚・出産退職」で、38%の割合でした。次いで2番目が「再就職」で、働き続けるという「勤続」は11%でした。

現在の感覚からいうならば、ちょっと信じられない回答かもしれません

2004年(平成16年)の同様の調査では、子供ができても仕事を続ける「勤続」がトップで41.9%と高く、次いで再就職が37%、結婚・出産退職は7.1%と、時代とともに女性の考え方は大きく移り変わっています。

1983年、日本で初めての体外受精児が東北大学医学部で生まれました。
この年、日本全国では4人の子供が生まれています。
妊娠に恵まれない女性が、なんとしても赤ちゃんがほしいという願いから、体外受精という方法を選択したわけです。

その一方で、産みたくても産めない女性もいます。
その女性にとって、妊娠中絶は最後の手段として選ばざるをえない場合があります。その選択権は女性側にあるべきと思いますが、当時の自民党は、妊娠中絶について定めた優生保護法において中絶が認められる理由のうち「経済的理由」によるという項目を削除する法案を国会に提出しようしていました。

この動きはこれまでにもあり、一時は衆議院を通過したものの、参議院で審議未了で廃案となっていました。

この法案が成立すると、女性が自分の意思で中絶ができなくなる可能性が高くなることから、全国各地で優生保護法改正反対運動がおき、結局提出は見送られることになりました。

子供をめぐる法律も改正されました。

1984年(昭和59年)国籍法が改正され、父母両系血統主義となりました。
これは、父親か母親が日本人なら生まれてきた子供は日本国籍を持つという意味ですが、
それまでは、日本国籍を取得するには、日本国籍の父を持つことが必須条件で、母親が日本人というだけでは、生まれてくる子供に日本国籍を与えることができなかったのです。

この法律改正は、二重国籍を防ぐという意味があったと言われますが、
結婚した女性は相手方の男性の家に入るという旧来の結婚観からきていたのかもしれません。

日本人男性と外国人女性の間に生まれた子供は自動的に日本国籍を得ますが、例えば日本人女性とアメリカ人男性の間に子供が生まれると、その当時は、子供は母親の日本国籍を得られないばかりか、日本で生まれた場合は、アメリカが出生地主義をとっていたためアメリカの国籍も得ることができず、無国籍児になってしまうのでした。

そのため、無国籍児をもつ親たちが裁判を起こすなどし、一般市民からも疑問の声があがるなどしたことから、法律が改正されたのでした。

こうした女性の地位向上に向けたさまざまな動きがある中、日本政府は国連の「女性差別撤廃条約」を批准します。1985年(昭和60年)
のことです。

国際条約ですから、条約に加盟するには批准という手続きが必要で、そのためには国内法の整備が求められます。国内法が条約の内容に沿っていなければ、批准できないのです。

先ほど述べた国籍法の改正や、この年に成立した男女雇用機会均等法も、この条約を批准するためには必要だったのです。

その男女雇用機会均等法は、1985年(昭和60年)に成立し、翌年4月1日から施行されました。

この法律は企業に対して、採用や昇進、職種の変更などにおいて、女性と男性を均等に取り扱うことを定めたものです。

その結果、新卒(大学)の採用に関しては男女不問とする企業が倍増、一部上場企業の採用では、70%の企業が男女不問とするなど一定の効果も上がりました。

確かに、この法律によって職場における男女差別はかなり改善されましたが、罰則規定ではなく努力義務であったため、改善はなかなか進みませんでした。

法律のすきまをぬったような制度もうまれました。「コース別人事制度」です。
性別による差別がだめなら、職種による待遇の違いは問題ないということで、男性は総合職、女性はそのほとんどが一般職(従来の補助的な仕事という意味)というもので、多くの勝者や銀行などで導入されました。

ごく一部の総合職の女性には、男性と同じような待遇や昇進の可能性が生まれたものの、ほとんどの女性にとっては、ほとんど変わらなかったのです。

一方で機会均等を逆手にとったような制度改悪もあります。

人事院が、国家公務員に関して女子の保護規定を改正し、深夜勤務や時間外労働の規制を緩和したり、生理休暇を廃止したのです。

何事も男女平等に、女性という理由で保護されるのでなく、男性と同じ労働条件で働けということでしょうか。

この結果が何を生み出したのか、家事や育児をしたくないという女性がでてきてもおかしくないのかもしれません。それが少子化に影響を与えたとはいえないでしょうか。

女性の活躍を象徴することがありました。
この年、土井たか子さんが日本社会党の委員長に就任しました。
日本で初めての女性党首でした。

女性をキーワードに、女性候補を大量に擁立した社会党は土井委員長の人気もあって、
1989年の参議院選挙では、自民党を参議院で過半数割れに追い込み、「山が動いた」は、その時を象徴する言葉としてメディアなどで盛んに取り上げられました。

税制も改正され、配偶者特別控除制度ができました。
これまで配偶者控除という制度はありましたが、この制度では、例えば夫がサラリーマン、妻がパートタイマーという世帯で妻の所得が38万円を超えると、夫は配偶者控除を受けられませんでした。

そのため妻の所得が増えて、急に配偶者控除がなくならないように、控除額が少しずつ減るようにする制度でした。

これが女性のパートタイム労働を後押ししたわけではないでしょうが、
この頃には、共働き世帯が専業主婦世帯を数の上で上回りました。

この制度はいくつかの問題も抱えていました。女性が、控除を受けるために限度額を超えないように就労時間を調整するなどの動きもあり、結果として女性の賃金が抑えこまれていたともいえます。

よく似たケースですが、国民年金制度も改正されました。
サラリーマンの夫に扶養されている主婦は、掛け金を払わなくても国民年金を受け取れる
「第3号被保険者」という制度ができたのです。

女性の年金権が確立されたという見方もありますが、夫が自営業とサラリーマンでは年金制度が違うといった制度の不備や不平等などもありました。

女性をめぐる環境という意味では、セクシャルハラスメントという言葉が生まれたのもこのころです。

きっかけは西船橋駅でおきたホームからの転落死でした。
酒に酔った男性がしつこく女性にからみ、それを避けようとした女性がはずみで酔漢を転落死させてしまったもので、裁判で検察は傷害致死罪で懲役2年を求刑しましたが、裁判所は、弁護側の正当防衛の主張を認めて無罪判決をだしています。

また、上司から性的な中傷を受け退職に追い込まれたとする女性が提訴した、日本で最初のセクシャルハラスメント裁判も、判決は被告の上司のセクハラ行為を認め、慰謝料150万円の支払いを命じています。

すでに欧米では確立されていたセクシャルハラスメントという概念が広く知れ渡ることになり、当時の流行語大賞にもなっています。

女性に対する性的な被害事例としては、現在の鉄道における女性専用車両の設置につながる事件が1988年(昭和63年)11月に大阪で起きています。
場所は大阪市営地下鉄御堂筋線の車内で、痴漢行為を注意した女性が逆に暴行されたというものです。

この女性は、2人組みの男が痴漢行為をしている現場に乗り合わせ、自分自身が以前に同じような被害にあったことから、被害にあっていた女性を逃がし、その男をとがめたところ、逆に男に連れまわされる破目になりました。

女性は逃れようと別の電車に乗り換えましたが、男たちはさらに追いかけて乗り込んできました。そして女性は終着駅で無理やり降ろされ、建築現場に連れ込まれて、脅されたうえ、暴行を受けたというものです。

女性が電車内で助けを求めなかったのは、以前自分自身が痴漢行為を受けた時に、周囲の人々に”見て見ぬ振り”をされた経験があり、「声をあげても誰も来てくれなかったら、何をされるかわからない」と思ったとのことでした。結果として、より悲惨なものになってしまいました。

この事件を契機に、地下鉄利用者等から結成された「性暴力を許さない女の会」などの活動もあり、痴漢防止を訴える車内広告やアナウンスが鉄道各社に導入され、現在の女性専用車両の設置につながりました。

女性の意識も変化していきます。結婚に伴う姓の変更についての考え方もその一つです。
今では結婚後も旧姓のままその職場で働いている人もたくさんいると思いますが、この頃は、本人が旧姓使用を望んでも、一般的には認められていませんでした。

当時大学の助教授に就任した女性は、論文の関係などから旧姓を継続して使用したいと大学側に申し出ましたが、認められず、戸籍名の使用を強制されたことから提訴に踏み切りました。裁判は最終的に「研究・教育分野での旧姓使用を認める」という形の和解で終わりました。

全面的な使用が認められたわけではないものの、大きな前進となったといえるのかもしれません。

また東京弁護士会が「選択的夫婦別姓採用に関する意見書」と法務省に提出するなど、夫婦の姓については、社会的関心が高まっていました。

民法では「結婚した夫婦はどちらかの姓を名乗る」と定められています。実際には多くの夫婦が夫の姓を名乗っていますが、職場における旧姓使用が広がるなど、社会的関心も高く、現在の夫婦別姓問題へと議論が続いています。

1989年(昭和64年)、昭和天皇が崩御されました。

時代は平成へと変わります

時代が変わるとともに、社会を1.57ショックがおそいます
これは合計特殊出生率と呼ばれるもので、一人の女性が生涯に産む子供の数を示したものです

人口統計調査が始まり、合計特殊出生率が計算されるようになってから
それまでの最低は、1966年(昭和41年)の1.58でした。

しかし、この年は、いわゆる丙午(ひのえうま)の年にあたり、例外とされていたのです。
丙午は、「その年に生まれた子供は気性が激しく、特に女性は夫となった男性を早死にさせる」という迷信がはびこったため出生率が下がったもので、前年の25%も下がったのでした。

この例外とみなされていた年よりもさらに出生率が下がったことで、日本政府は事態を重く受け止め、報告書をまとめました。

報告書は、この状態を「深刻で静かなる危機」とみて、子育てに男女が関わることができる社会の実現などを求めました。

出生率の低下の原因は、住宅事情や経済状況、出産・育児と仕事の両立など、いろいろ考えられます。
また、女性の晩婚化、非婚化も大きな原因とされましたが、その事情は今も変わらず、出生率は現在まで年々下がっていて、大きな社会問題となっています。

日本の社会の根底を覆すかもしれない少子化問題は、現在避けては通れない問題であり、女性の社会参画を促すには、こうした問題を解決しなければ前には進まないと考えられています。

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