100年の歴史と女性たちDECADE②
【1917年(大正6年)~1930年(昭和5年) 】

~ トレンド ~ 

この時代の主な出来事

◎第一次世界大戦(1914年〜1918年)
◎デモクラシー主張の高まり(1916年〜1917年頃)
◎関東大震災(1923年9月10日)

ファッション(和装から洋装へ)

今では当たり前のようになっている洋服を女性が着るようになったのは
明治の鹿鳴館の時代だといわれています。
文明開化が急速に進んでいた頃でしょうか。
日本が文明国であることを諸外国にアピールする目的もあり、
きらびやかな西洋風のダンスパーティーが開かれた鹿鳴館。
女性たちは西洋風のファッションを取り入れて、
コルセットでウエストを細くしぼり、フレアースカート姿で参加をしたそうですが、
洋服は、まだまだ官僚や華族のような特別な人たちのもの。
とても高価だったようです。
洋服に手の届かない人たちは、まだまだ和服でした。
この「和服」という言葉は、「洋服」が日本に入ってきた頃に
洋服に相対する言葉として作られたそうです。

西洋風で目新しく、しゃれた装いや生活スタイルを好む人が「ハイカラ」と呼ばれた
明治から大正の頃、女学生の間で流行したのが袴姿。
自由で闊達、ロマンチックなムードが香る「大正浪漫」を象徴する服装のひとつですね。
コミック「はいからさんが通る」でもおなじみ。
今も大学や短大、最近では小学校の卒業式などでも見かけるスタイルです。
袴そのものは平安朝以降、宮廷の女性が履いていたとされていますし、
巫女装束としても知られています。
明治初期には男性用の袴を女性も履いていたそうですが、
ハイカラな女学生袴は裾がスカート状で、より動きやすいように丈を短く着付けたもの。
日本に昔からある袴に新しい感覚を取り入れたという点も、
人気のポイントかもしれませんね。
袴姿と合わせるアイテムの代表は、矢絣の小袖、皮のブーツ。
そして、左右の髪を半分アップにして膨らませ、大きなリボンで飾ったヘアスタイル。
着物よりも足さばきが軽やかな袴は、時代の変化と共に活動的になってきた女性にぴったり。
西洋のブーツやリボンを取り入れた和洋折衷の文化、最旬ファッションだったのでしょう。

生活の洋風化がさらに進み、洋装が定着したのは大正時代後期。
関東大震災の時、動きにくい和服で逃げ遅れた人が多かったということ、
欧米から支援物資で、さまざまな洋服が届いたことなども、
洋装が普及した一因だということです。

女学生の定番スタイルが袴からセーラー服に移行していったのも、
この辺りの時期だといわれています。
セーラー服はもともとイギリス海軍で生まれ、各国で海軍の制服として導入されたもの。
いわゆる“水兵さん”。時代は後になりますが、アメリカン・コミック
「ポパイ」のスタイルですね。
動きやすくてかわいいセーラー服はヨーロッパで子供服として愛用されるようになり、
やがて学校の制服に。
大正時代後期、日本の女学校にも上陸したのでしょう。
最初はワンピース型や上下セパレート型のものなど
スタイルに違いはあったようですが、セーラー衿がついている点は同じ。
胸から開いた衿やリボン、プリーツスカートは賢く美しい、
“これからの女性”を表すスタイルとして受け入れられたのでしょう。
各地の女学校で制服としてセーラー服が採用されていきます。

その時代に女学校に通えたのは、裕福な家庭の生まれか、勉強ができる女子。
女学生は、当時まだ数少ないエリートだったのです。
“エリート女性が着る、モダンなセーラー服”というのは良い印象ですし、
きっと少女たちは女学生を夢見たことでしょう。
人生で一度もセーラー服を着なかった者にとっては永遠の憧れ。
ちょっと遠い存在のような気高さを感じてしまう背景には、
こんなセーラー服のDNAも影響しているのかもしれませんね。

西洋ファッションの影響は、もちろん学生服だけではありません。
大正後期から昭和初期、流行の最先端を取り入れた若者は
「モダン・ボーイ(モボ)」「モダン・ガール(モガ)」と呼ばれていました。
女性の髪型は、束ねた長髪からショートボブに。
帽子、ワンピース、ロングネックレス、濃いめのメイクなどがモガの特徴です。
ファッションだけでなく生き方や思想も、現代ほどではないにしても自由恋愛、個人主義、
そして女性の社会参加…と、モダンに進化します。
銀座をブラブラと歩く「銀ブラ」という言葉が流行したのも、モボ、モガの時代。
言葉自体は以前からあったようですし、「銀ブラ」の語源には、銀座のカフェで
当時高価だったブラジルのコーヒーを飲む、という説もありますが、
どちらにしても豊かで近代的な日々を謳歌しているな。
未来への希望に満ちているな、というイメージがある言葉ですね。
明治時代に新聞社が進出したことにより情報や流行の発信地となり、
デパートがあり、映画館があり、カフェや洋食店がある銀座。
最先端ファッションに身を包んだモボ、モガがそぞろ歩く姿を想像しただけで眩しく、
うきうきした気分になります。

銀座をはじめ、都市部で大正時代に発展したのが洋食文化。
洋食店の数が増え、洋食は上流社会以外にも親しまれたといわれています。
洋食店で特に人気だったのが、カレーライス、とんかつ、コロッケ。
「日本の三大洋食」として今も愛されているメニューは、西洋のものを日本的にしたもの。
西洋と日本の程よいミックス、西洋の要素を取り入れた「和製○○」などを作る
日本人のアイデアとセンスは素晴らしいですね。
おいしい日本の洋食を生み出してくれた料理人たちに感謝したいです。
年がら年中コロッケだとコミカルに歌う「コロッケの唄」が生まれたのは大正6年(1917年)
洋食の庶民化は、この頃から始まったのかもしれません。

このように、1917年~1930年は、世界も日本も激動の時代。
さまざまな物事がスタートした時期だといえるでしょう。

1917年は、世界で初めて商業用のジャズ・レコードが録音、発売された年だとされています。
今年、2017年はジャズのレコード誕生100周年ということになりますね。
これには諸説ある中、世界初のジャズ・レコードを出したのは、ニューオリンズ出身の
オリジナル・デキシーランド・ジャズ・バンドだというのが有力です。
バンド名の通り、デキシーランド・ジャズを演奏。
デキシーランド・ジャズは、ジャズのルーツといわれていますから、
それが最初のジャズ・レコードになるのは理にかなっているでしょう。
この先、ジャズのスタイルも録音技術も進化していくわけですが、
早く日本にジャズが入ってくるといいな。
と、待ち遠しいような気持ちになる出来事です。

1925年(大正14年)には日本でラジオ放送が開始されます。
東京、大阪、名古屋に放送局ができ、ラジオの歴史が始まりますが、
当時ラジオは高価な上、取扱いも難しくて、なかなか普及しなかったそうです。
富裕層だけのものだったラジオがお茶の間の主役になるのは、もう少し先のこと。
平日のラジオ番組は、株式市況や商品相場、ニュースが中心でした。
日曜祝日に娯楽の番組はあったものの、どうやら初期のラジオは金融関係者や
商工業者の情報源として活躍していたようですね。
現代ではITを使って投資情報などを集めるのがメインですが、
昔はそのツールがラジオ、きっと、そのまた前は新聞だったのでしょう。
ツールや時代は違っても、投資家たちが最新情報を求める意欲は同じ。
そして新しいメディアをすぐに活用し、ビジネスに活かすスピード感も、
彼らが潜在的に持ち合わせている能力なのかもしれません。

ファッション、食、音楽、メディアと、さまざまなものが動き始めたこの時期を経て、
世界は、人々はどう変わっていくのか?

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