100年の歴史と女性たちDECADE③
【1931年(昭和6年)~1940年(昭和15年) 】

~ 時事 ~

世界中が再び戦争に巻き込まれ
日本も歩調を合わせるように戦争へと突き進むことになるこの時代
女性の生活も戦争の影響を色濃く受けていました・・・

1931年(昭和6年)に起きた満州事変。
満州は、現在の中国の東北部にあたり
その当時、日本が事実上、半植民地化していました。

日露戦争を経て日本はロシアや中国から
満鉄と呼ばれた南満州鉄道の権利や
遼東半島の租借地などを権利として得ていましたが
それは中国にとって、決して納得のいくものでなく
不満がたかまり排日運動が続いていました。

日本国内に目を向けると
1929年(昭和4年)の世界恐慌の影響により
企業倒産や失業者があふれ、不景気に見舞われていました。
そこで日本は、資源が豊かで未開拓の土地「満州」に
莫大な投資をし
この不況からの脱出を試みていました。

しかし、排日運動の激化は現地の日本企業に影響を与え
業績は不振
日本もまた出口のないいらだちに鬱憤をためこみます。

当時満州には、関東軍と呼ばれる日本の軍隊が展開していました。
満鉄や租借地を守るという名分でしたが
その関東軍が
「満州は日本の生命線だ」という
国内に広がっていた国民感情を背景に
独自で軍事行動を起こしたのがこの満州事変です。

1931年(昭和6年)、関東軍は満鉄の線路を爆破
これを中国軍のしわざだと称し
中国との間での全面戦争に突入しました。

日本政府は不拡大方針をとりましたが
関東軍は瞬く間に満州全域を占領しました。

翌年には
中国の清朝最後の皇帝、愛新覚羅溥儀(アイシンカクラフギ)を皇帝に
満州国を建国しました。
満州国は、傀儡政権といわれ事実上は日本の支配下となりました。
この溥儀を主人公にした映画が
1987年(昭和62年)に上映されたあの「ラストエンペラー」です。
坂本隆一さんが音楽を担当したことでも話題になりました。

この満州国には、大勢の農民が移住しました。
貧しい農家の二男や三男です。
一人で行くものもいれば、家族と一緒に移住する人たちもいました。
彼らは「満蒙開拓団」と呼ばれました。

中国残留孤児、今は中国残留邦人と呼ばれる人たちことを
新聞などで目にしたことも多いと思います。
第二次世界大戦後
さまざまな事情で中国に残された日本人のことをいいますが
それがこの満蒙開拓団の人たちなのです。

日本政府は当初、貧困に苦しむ農民を
“満州に移住させることでこの難局を乗り切ろう”と考え
都道府県ごとに移民の数を割り当て
それが達成されると報奨金を支払いました。

しかしこの計画には大蔵省などが反対
なかなか国をあげてとはいきません。
そこで移住計画を進めるために政府は
外郭団体を通じて機関紙を発行し
宣伝活動に力を入れました。
紙面は移民に関する肯定的かつ楽観的な記事でうまりました。
例えば、満州開拓のための指導員を現地で養成する学校が作られると
新聞はその話題を大々的に取り上げました。
満州建国の映画も作られました。
こうして官民一体となって移民を推奨していました。

軍部を中心に移住計画を推し進めていた政府に対し、高橋蔵相は移民にかかる費用など財政状況を理由に反対を表明していました。

その高橋蔵相が、2.26事件で暗殺されたことで、
政府内に反対する人がいなくなり、政府はその後、移住計画をどんどん進めることになります。

政府は当時の日本の農家560万戸の半数に近い200万戸が
貧農状態にあるとして
その半数、100万戸、人数にして500万人を満州へ移住させる計画を
国策として推し進めます。

当初は成人男性を中心に送り込まれましたが
日中戦争などで、成人男性が兵員として召集されるようになると
その補完として次第に10代の若者が移民することになります。
彼らは「満蒙開拓青少年義勇軍」と呼ばれました。

1938年に設立された義勇軍として満州に送り込まれた若者は
終戦となる1945年までに約86,000人あまりにのぼります。
その青年たちも、やがて結婚適齢期を迎えます。
満州には、移住者の家族や子供として暮らす日本人女性はいましたが
花嫁の対象となる年齢の女性の数はそんなに多くありません。
その青年たちと結婚するために、海を渡った女性を「大陸の花嫁」と呼んだのです。

1935年(昭和10年)、全国に先駆けて長野県は
「長野県桔梗が原女子拓務訓練所」を開設しました。
「大陸の花嫁」を養成する訓練所です。

なぜ長野県に最初にできたのか
長野は義勇軍をもっとも多く送りだした県で
全体の12.5%にのぼります。
農家の二男や三男が働きたくても働く場所がなく、耕したくても耕す土地がない、長野県では特にその傾向が強く、農村部で人口が過剰になっていたのです。

送り出したかぎりはその青年たちのことを考えなければなりません。
それがこの訓練所を全国に先駆けて作った理由でした。

もちろん花嫁養成と銘打って生徒を募集したわけではありません。
女性もお国のために何かしよう
そんな気持ちを自然と持つようになる時代であり
それが一つの形となって表れたのが
満州へわたり、農作業に従事したり、学校で学ぶことだったのです。

女子拓務訓練所では一年にわたって
調理や生け花・裁縫、農業実習などを学び
現地満州の様子を視察する旅行なども行われていました。

場合によっては一か月の研修という形で
現地に送り込むというカリキュラムもあったようです。

彼女たちも、自ら進んで訓練所の門をたたいたわけでもありません。
地元で教師から勧められたり、勧誘を受けるなどして
この訓練所行きを決めたといいます。
移民と同じく、巧みな宣伝やキャンペーン活動が繰り広げられたことがうかがえます。

女子も国のために働く
そんな教育が行われ、精神的指導があった時代でした。

地方自治体に続いて政府も
「満州開拓民の伴侶となるためには、確固たる信念を持った女子を養成する訓練所が必要である」
との考え方に基づいて、42か所の設置を決定しました。
しかし、その裏には
「大和民族純潔を守る」「混血を許さない」
という考え方があったともいわれています。

振り返って現代、テレビや芸能の世界などで
ハーフタレントが脚光を浴びています。
外国語を話せるというだけでなく
そのビジュアルも大きな力となっています。
しかしよく見ると、すべての国の人とのハーフが活躍しているわけでもありません。
やはり欧米、白色人種系が多いような気がしませんか。

当時、日本政府が大和民族の純潔うんぬんといっていたといわれますが
必ずしも言葉どおりに受け止められないような気がします。

彼女たちは、満州から一時帰国した義勇軍の男性らと集団見合いをし、結婚して満州へと渡っていきました。

また、満州にも同じような施設がありました。
こちらは「開拓女塾」と呼ばれ16か所あったといわれています。
直接満州にわたり、農作業などの勤労奉仕に励み
そこで得た知識を日本に持ち帰って
お国のために尽くそう
そう思って女性たちは海を渡りました。

花嫁になるという意識はあまりなかったのでしょう。
しかし、現地で見合いを勧められ
帰るに帰れなくなった人もかなりいたようです。

国内では、満州事変の翌年に
海軍の青年将校らが当時の犬養首相を暗殺する5.15事件が発生
これを機会に軍は政治への発言力を増しました。

この時殺害された犬養首相は、あの緒方貞子さんの曽祖父です。

緒方貞子さんといえば41歳で国連に勤務
当時、どこから来たのかとたずねられ
「台所から来ました」
と答えたという話はあまりにも有名です。

また、1990年(平成2年)からは
UNHCR(国連難民高等弁務官)として、世界の難民問題に取り組みました。
世界の平和と難民問題にとりくんだ世界的に有名な日本女性、その緒方さんが
アジアへの武力進出と日本の孤立化のきっかけとなった5.15事件の被害者と関係があったというのも、何かのめぐり合わせと思えてなりません。

この5.15事件を起こした青年将校らは
助命嘆願運動などもあり、裁判の量刑は軽いものとなりました。
不況から脱出できない日本の政党政治に対する不満からの行動に
国民もまた共感したのかもしれません。

その日本ですが、満州建国に反対した中国が国連に提訴
国連は日本の行為を侵略とみなし、満州からの撤退を決議します。
日本はそれを拒否、国際連盟を脱退します。
こうして日本は世界の中で孤立し
軍国主義へとつきすすんでいきます。

1936年(昭和11年)には2.26事件が発生
青年将校らが当時の大蔵大臣、高橋是清らを殺害し
首相官邸などを占拠しましたが
クーデターとしては失敗に終わります。

1500名近い下士官を率いての行動であったこの事件は
体制転覆を狙ったクーデターとして厳しい判決が下され
主犯格の21人が死刑となりました。

平均年齢29歳、その妻たちも若い女性でした。
彼女たちの多くは未亡人として子供や親を守って
戦中戦後の時代を生きてきました。

彼女たちの人生は
1972年(昭和47年)に澤地久枝さんが「妻たちの2.26事件」としてその記録を著しています。

歴史は男性視点から書かれたものが多いのですが
その陰に苦労した女性の歴史があったこともまた事実なのです。

この二つの事件を通じて、軍は政治への介入を強め
政府は軍の意向を無視して組閣さえできないようになっていったのです。

1937年(昭和12年)、日本は中国と軍事衝突
遂に日中戦争が始まりました。

この年の予算は戦時特別会計(国債発行)を加えて47億円
そのうち軍事費が32億円と実に歳出の70%を占めていました。
これを現在にあてはめてみると
2017年度の予算が97.4兆円
その70%というと68兆円という膨大な数字になります。
ちなみに現在の防衛関係予算は5.1兆円、約5%です。

そうなると生活物資は逼迫し物価は高騰
市民の生活がどんどん苦しくなっていくのも当然といえます。
軍事費は終戦時には740億円にのぼりましたが
そのほとんどは国債でした。
つまり国として次から次へと返す当てのない借金をして戦争をしていたわけです。

戦争動員で働き盛りの男性が兵隊にとられるようになると
労働力が不足し、女性が労働力として今まで以上に求められるようになります。
これは前のDECADEでも同じ話があったかと。

1930年(昭和5年)から1940年(昭和10年)の10年間に
就業者数は全体で289万人増加した中、75.1%、217万人が女性でした。
女性は労働力として求められるとともに
銃後の生活を守るという動きも活発になります。

1932年(昭和7年)、大阪で「大阪国防婦人会」が発足します。
出征兵士や応召のために帰省する若者に湯茶をふるまったのが最初といわれますが、
この会の目的は「国防」いわば「銃後」の守りでした。

「銃後」とは、今ではめったに聞かなくなった言葉ですが
軍隊で直接戦闘に参加するのではなく
軍需工場などで働いて戦争に協力するという意味です。

ずっと日本女性は家庭を守るという教えを受けてきたわけですが
戦争という状況下で今度は男性の代わりとなって働けと
都合よく使われたともいえます。

前のdecadeで紹介した、日本最大規模の婦人団体「愛国婦人会」は皇族や貴族の女性を中心に、慈善活動を行っていました。
それに対し、一般家庭の女性を中心に、全国に活動を広げていった「大阪国防婦人会」はその後
名前を「大日本国防婦人会」と改め、愛国婦人会をしのぐ存在となりました。

スローガンは「国防は台所から」

どこかで聞いたような言葉です。
あの緒方貞子さんが国連で「どこから?」と問われて
答えた言葉はここからきているのでしょうか・・・

女性らは白い割烹着のまま台所から街頭に繰り出し、活動を行いました。
出征兵士の見送り、留守家族の支援、慰問袋の製作、病院での清掃などです。
軍需工場で働くだけでなく、こうした活動もまた銃後の守りだったのです。

ところでどうして白い割烹着にたすき掛けだったのか。
それは当時の女性たちは着物姿がふだん着だったわけですが
その着物を優劣を競うようなことは避けたいと
割烹着をいわばユニフォームとしたのです。
これは誰もが参加しやすくするための策だったといわれています。
このあたりも愛国婦人会とは違った成り立ちですね。
いつの時代も女性にとってファッションは気になりますから
グッドアイデアだったでしょう。

そのような心配りのたまものか、大日本国防婦人会は
その後急速に会員を増やし、その数は1940年には900万人を超えました。

男も女も総力をあげて戦争を遂行する。
そんな時代でした。

日中戦争が始まってからは、政府も国民に対し
「国家のために自己を犠牲にして尽くす」ことを推奨
節約・貯蓄を奨励し、1938年(昭和13年)には
国家総動員法を公布します。

この法律は、「国家の人的・物的資源を政府が自由に統制運用できる」というもので、この法律に基づき、国民徴用令、賃金統制令、価格統制令などが出され、国民の生活は息苦しく厳しいものになっていきます。
国民徴用令は、召集令状の赤紙に対し白紙と呼ばれました。
軍需工場などで強制的に働かされたもので、職業の自由はなくなりました。

女性は、この時点ではまだ対象となっていませんでした。
銃後を守る女性に影響があった法律は、価格統制令ではないでしょうか

軍事費が増大し、軍需産業が盛んになる一方で
生活必需品は不足し、価格が高騰
政府は価格統制令で、公定価格を定めます。
値段が上がらなくて生活は助かる
そう見えますが、実際は、物資の値上げができなくなり
物資は市場に出回らなくなりました。

商品は闇市場に流れ、社会には闇価格が横行します。
闇価格は政府の統制がきかないので、その価格はますます上昇し
一般の人たちの生活ははますます苦しくなったのです。

闇価格は公定価格の50倍近くまで跳ね上がりました。
100グラム500円の牛肉が25000円になるわけですから
いかに闇価格が高いかということが想像がつきます。

市場にでまわる物資が少なくなると
ついには物資の配給統制令も出されました。
配給されるもの以外は手に入れることができなくなりました。
そのもっとも顕著なのが日本人の主食である米。

1939年(昭和14年)
大阪の堂島にあった米取引所が閉鎖されました。
その始まりは1730年(享保15年)にさかのぼる日本で最初の米取引所です。

江戸時代、米はすべて大阪に集まり、そこから関東へも運ばれていきました。
その後東京や各地に米取引所が開設されましたが
この時期、全国一斉に閉鎖となったのです。
自由に取引されていた米ですが
政府は恐慌や不況による価格の高騰を理由に
米市場へ介入、政府の管理下におかれます。
そして米穀配給統制令公布により、米はついに配給制となりました。

戦後この配給制はなくなり、今では高級ブランド米を中心に
市場に出回るコメがふえましたが
政府の介入は結局、2004年(平成16年)まで続き
13年前にようやく自由に取引できるようになったのです。

目をヨーロッパへ向けると
ドイツも
国際連盟を脱退
オーストリア併合
チェコスロバキア占領に続いて
ポーランドに侵攻
これにイギリスとフランスが宣戦布告して
1939年(昭和14年)、第二次世界大戦が勃発しました。

日中戦争がこう着を続ける中
日本はドイツやイタリアと日独伊三国同盟を締結
逆にアメリカとの関係は
武器や軍需品(ガソリンなど)の対日輸出が許可制になるなど対立を増し
引き返せないところへと突き進んでいきます。

戦争が長引くと、人々の生活に影響が及ぶのは当然ですが
当時、日本政府は人々の結婚生活にまで口出しをするようになりました。

これは厚生省が発表した「結婚10訓」です。

o 一生の伴侶として信頼できる人を選びませう。
o 心身ともに健康な人を選びませう。
o お互いに健康証明書を交換しませう。
o 悪い遺伝のない人を選びませう。
o 近親結婚はなるべく避けることにしませう。
o なるべく早く結婚しませう。
o 迷信や因襲にとらはれないこと。
o 父母長上の意見を尊重なさい。*長上とは目上の人、年上の人。
o 式は質素に届けは当日に。
o 産めよ殖やせよ国のため。今もおなじこと

当時、日本は毎年100万人、人口が増大していましたが
日中戦争などで男性の多くが兵士として召集され
それにつれて人口の増加も減り
ついに1938年(昭和13年)には人口増が30万人ほどになりました。

この事態を重くみた厚生省が、子供を増やそうと考えたです。
10番目の「産めよ殖やせよ国のため」という部分にその気持ちがよく表れています。

去年4月、女性活躍推進法が施行されました。
女性の個性と能力をもっと十分に社会で活躍してもらおうという趣旨ですが、当時も今も、社会は女性の力を求めています。

女性の力が求められるということ、そのときそのときの時代背景をみると、手放しに喜べないような気もします。

1939年(昭和14年)には、「国民優生法」が制定されます。

家庭で夫をささえ、子供を産み育てることが美徳とされた女性の生き方、それは時代とともに変わっていきます。
男も女も関係なく、一つの目標に向かって動員される、それが戦争です。
太平洋戦争へと突入していった当時の日本、そして今の日本は、どこに向かっているのでしょうか。

世の中が、何かうまくいっていないとき、女性の力が求められる?
そんなうがった見方をしてしまいそうです。

一覧へ戻る