100年の歴史と女性たちDECADE④
【1931年(昭和6年)~1940年(昭和15年) 】

~トレンド~

この時代の主な出来事

◎満州事変(1931年)
◎二・二六事件(1936年)
◎第12回オリンピック東京大会の中止を決定(1938年)

映画とファッション

1929年の世界大恐慌から続く不況対策として、主要国は関税の引き上げや輸入制限などを強化、自国産業の保護に走っていた1930年代。
内向きで排他的な経済と相反するかのように、女性の暮らしや装いは外向きに変化します。
この変化に大きく関わっているのが、「映画」です。

1931年1月、警視庁保安部は映画館での男女別席規制の撤廃を決定。
それまでの映画館は、男性席と女性席、夫婦用の同伴席に分かれていました。
一般の劇場では座席を選べるのに映画館だけ男女別席なのは矛盾していないか?
男性席が満席の場合、たとえ女性席が空いていても、もう男性客は座ることができない。
これでは消費者としては面白くないし、興行者にとっても都合が悪いだろう。
・・・などが撤廃の理由。

男女が同じ場に集う機会が増えた時代。
古い習慣にとらわれて取り締まりをするのは野暮で時代遅れだ、
という見解もあったようです。
今や定番になっている映画館デートは、ここで解禁になった訳ですね。
デートで映画を楽しむカップルが増えて、きっと経済効果もあったでしょう。

この時代は、映画界も劇的に進歩します。
1920年代後半までは、音声のない無声映画の時代でした。
やがて、歌や演奏シーンを同時録音した部分的なトーキー作品などが発表されはじめ、1928年にはアメリカで完全なトーキー映画が作られます。
日本もすぐに後を追いかけ、1931年、初の国産トーキー映画が公開されました。
ファンにとっては銀幕スターの声が聞ける喜びがあり、映画人気が高まる一方
容姿と声にギャップがある役者は人気が落ちたり、映画館で無声映画の解説をしていた
活弁士が職を失ったりするなど、寂しい一面も・・・。

新しい物事が興る時、光と影が付き物かもしれませんね。
双方はそこで試行錯誤し、何かを掴んで次へと進んで行きます。
活弁士たちは話術を生かして「漫談」を始めたと言われていますし、映画は黄金時代に向かって発展を続け、現在も人々を楽しませています。
いつの時代も、前進する精神は忘れたくないものです。

映画は女性のファッションにも大きな影響を与えました。
1931年に日本で公開された、初の日本語字幕付きのトーキー作品「モロッコ」で
マレーネ・デートリッヒが着ていた黒いメンズスーツに女性たちが反応。
女性のファッションにパンツ・スタイルが参入します。

日本の女優たちが映画の中で着ていたテーラードスーツも人気を呼び
肩パットの入ったジャケットにスカートやパンツを組み合わせ、男物の帽子を被るなどの
マニッシュなスタイルも登場します。

また、フェミニンなファッションにも、ハリウッド映画風の要素が取り入れられたようです。
スリムなシルエットのロングドレスは1930年代を代表するスタイル。
スカート丈は長くなり、ベルトでウエストを絞り、女性らしさを強調しています。
トップスではパフスリーブや、胸元にフリルやリボン、ケープなどをあしらった
ロマンチックなアイテムも好まれ、女性の洋装はバラエティ豊かになってきました。
中にはワンピースの上に紋付の羽織を着たり、着物に毛皮の襟巻きを合わせたりする、
モダンな和洋ミックスのスタイルもあったそうです。
映画を通して海外の最先端ファッションを知った日本の女性たち
そのセンスとアイデアは既にグローバルだったのですね。

メイクも銀幕の女優たちをお手本にして、アーチ型につり上げた眉と、外側へ大きめに描いた唇に変化します。

映画と共に娯楽の主流だったのが、アウトドアでのレジャー。
こちらも女性のファッションに変化をもたらせます。
海のレジャーの王道、海水浴に欠かせないアイテムが水着。
現在と比べると機能的とは言えず、露出も少なかったのですが、これが体にフィットした
デザインになり、背中を見せるバックベアスタイルに。
現在の水着に近くなってきました。

スキーウエアは色合いが鮮やかになり、柄もののニットやパーカーにニッカーボッカー、
スリムなパンツを合わせるなどが主流になりました。
おしゃれなスキーウエア姿で雪山登山を楽しむ、今でいう“山ガール”も居たそうです。
海や山へ出かけて自然を満喫する人が増えた背景には、都市化や鉄道の整備が進んだこともあると思われます。
生活拠点の都市部からリゾート地へのアクセスが楽になり、日帰りも可能。
娯楽がさらに身近になり、幅が広がったことでしょう。

この流行を反映していたのか、1932年に開催された「第一回児童唱歌コンクール」(「NHK全国学校音楽コンクール」として継続中)の課題曲には、『海』と『スキー』がありました。

女性のヘアスタイルではパーマネントが流行りました。
大正後期にアメリカから入ってきたとされるパーマ技術は1930年代前半に美容院の営業に取り入れられ、その後ブームに。
しかし1937年、日中戦争の勃発を機に行われた国民精神総動員運動により、電気や鉄製の機械を使い、装飾的な印象があるパーマも“ぜいたくは敵だ”と禁じられます。

華やかに進化した女性のファッションは戦時色に染められ、やがて、もんぺが女性の定番服となる訳ですね。
実体験のない者が易々と言えることではないですし、当時は“おしゃれどころではない”
命に関わる状況だったのは学校でも教わりましたが
戦争中だからこそ、戦う男性のためにも美しくありたいと思っていた女性は、きっと居たでしょう。
彼女たちの願いや苦しみ、努力が
現代の強く美しい女性に繋がっているのだと信じたいです。

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