100年の歴史と女性たちDECADE⑮
【1991年(平成3年)~2000年(平成12年) 】

~ 時事 ~

「女性の権利は人権である」
1980年代に高まった女性の人権や社会参画に対する認識は、1990年代に入ってますます広がりを見せ、国際会議でもたびたび取り上げられるようになりました。
国内では男女共同参画社会形成へと向けて取り組みが始まります。

1991年、緒方貞子さんが日本人として、そして女性として初の国連難民高等弁務官(UNHCR)に就任しました。女性の活躍を象徴するニュースとなりました。
 
1985年に制定された男女雇用機会均等法以降、女性の社会的進出はますます盛んとなり、活躍の場が広がっていきます。もちろんそれまでも大勢の女性たちが活躍していたわけですが、90年代に入ると、女性初という言葉が社会のあらゆる場面でよく聞かれるようになります。
 
田部井淳子さんは女性として初めて、世界最高峰のエベレスト登頂に成功したことで知られますが、1992年には世界7大陸の最高峰制覇を達成します。政治の世界では、初の女性市長が兵庫県芦屋市で誕生、初の女性知事は大阪府で生まれました。そして女性として初めて政党の党首となり、衆議院議長になったのが土井たか子さんでした。
 
社会の中で活躍する女性たち、その女性たちのキャリアにとって大きな影響を与えるのが育児です。キャリアのために結婚をあきらめ独身を通した人もいます。働く女性のための育児休業制度は、1972年施行の勤労婦人福祉法で初めて制定されましたが、実際の運用は事業主の努力に任された努力義務規定にとどまりました。
 
1975年には公務員のうち女性教師や看護婦、保母を対象に育児休業制度が導入されましたが、すべての女性を対象としたものではありませんでした。また、育児休業の申請があれば原則として許可しなければならないと定めているものの、あくまでも「努力義務」でしたので、実際に育児休業を取得できた女性は限られた人たちだったといわれています。
 
それから16年後の1991年、すべての労働者を対象とした育児休業法が成立しました。この法律は女性だけでなく、男性も等しく、子供が1歳になるまで育児休業を取得できると定められています。この背景には、前のDECADEで触れた出生率の問題があります。1989年に特殊合計出生率(一人の女性が生涯に産む子供の数)が1.57まで低下した「1.57ショック」です。少子化への対応はもっと前から始まっていましたが、政府内においても育児支援が必要という認識が高まり、自民党をはじめ、野党各党が80年代にこぞって育児休業法を提出し、90年にようやくまとまったのでした。
 
女性の働く環境をめぐっては、1993年にはパートタイム労働法が成立・施行されました。パートタイム労働は1980年代から増加しましたが、その多くは再就職した主婦たちでした。彼女らは、社会において重要な役割を果たすようになり、適正な労働条件の確保や教育訓練、福利厚生の充実などが求められたことからこの法律が制定されました。事業主に対しては、パートタイム労働者の雇用時に労働条件を文章で交付する努力義務などが課せられました。それまで短時間で働く労働者の処遇に関する法律がなかったことを考えると、この法律の施行は大きな前進といえます。しかし、正社員とパートタイム労働者のの差別待遇を禁止する条項はありませんでした。正社員との格差を是正する方向が打ち出されるのは2008年の改正時ですから、さらに15年もの歳月が必要でした。とはいえ、こうしてさまざまな法律が整備され、働く女性たちの権利が守られるようになりました。と同時に世界でも大きな動きがありました。
 
1993年6月、オーストリアのウィーンで「国連世界人権会議」が開かれたのです。この会議では「女性の権利は人権である」とのスローガンが掲げられました。採択された「ウィーン宣言及び行動計画」には、「女性の人権は普遍的な奪うことのできないもので、あらゆる生活の場面での差別や女性に対する暴力の根絶、セクシュアル・ハラスメントや性的搾取の撤廃」が掲げられ、政府機関などに対し、人権の保護・促進への努力を強化することを要請しています。また、「女性に対する暴力に関する宣言案」の採択を国連総会に求め、総会では「女性に対する暴力の撤廃に関する宣言」が採択されました。女性への暴力とは、身体的、性的、精神的に苦痛となるあらゆる暴力行為とされ、具体的には、家庭内での暴力(妻に対する夫の暴力、幼女虐待など)、社会生活における暴力(職場や学校でのセクハラ、人身売買、強制売春など)などとされました。このころからDV(ドメスティックバイオレンス)という言葉が一般的に使われるようになりました。それまで家庭内での暴力は愛情表現などとして犯罪として認められませんでしたが、ようやく社会的に問題として認知され始めたのです。
 
1994年、日本政府は「婦人問題企画推進本部」を廃止して内閣総理大臣を本部長に「男女共同参画推進本部」を内閣に設置しました。男女共同参画社会とは、「男女が、社会の対等な構成員として、自らの意思によって社会のあらゆる分野における活動に参画する機会が確保され、もって男女が均等に政治的、経済的、社会的及び文化的利益を享受することができ、かつ、共に責任を担うべき社会」と、あとで触れる男女共同参画基本法に定められています。これまで女性の問題は女性だけにとどまりがちでしたが、両性の問題であるという認識が明確になったのです。
 
これをきっかけに、日常生活レベルでも変化が出始めました。すべての高校で家庭科が男女必修となり、一部の自治体では、母子手帳ならぬ父子手帳の発行が始まりました。また、当時の自治省は、1995年から住民票の続柄についての記載を「子」に統一することを決定。これまで法律上の夫婦の子供は、長男・長女などと記載され、そうでない男女の子供は「子」と記載されることから、嫡出子と非嫡出子の違いが判る状態でしたが、それが解消へと向かいます。また養子についても記載を「子」に統一。家族の在り方についての考え方にも変化が見え始めました。
 
家族に対する責任という観点では、これまでの育児だけでなく介護も対象にすべきとして、1995年には介護休業制度が創設されました。育児休業法を改正したもので、最初は努力義務でしたが、その後要介護状態になった家族のために、最大3か月間休業する権利が認められました。当然、事業主に対しては、これらの権利申請を理由にした解雇を禁止し、深夜業の制限や労働時間の短縮などの対応も求められます。しかし、これらの規定も非正規雇用の社員には適用されないといった課題が残され、その後改正が重ねられていきます。
 
1995年1月17日、阪神・淡路大震災が起きました。
淡路島沖の明石海峡を震源にマグニチュード7.3の大きな地震が発生、死者6000人を超える日本で初めての大都市直下型地震で、震度7を記録しました。大混乱の中、一時は30万人を超える被災者が避難所暮らしを余儀なくされました。小学校の体育館などでの避難所生活をめぐっては、プライバシーの問題や、トイレ、着替えなど女性ならではの問題が顕在化し、うつ病などに悩まされる女性もいました。また、一部では、避難所における女性に対するレイプ被害もあったといわれ、目の届かない場所での性被害は女性の心に大きな傷を残しました。
 
阪神・淡路大震災から半年あまりが過ぎた1995年9月、中国の北京で世界女性会議が開かれ、「北京宣言」が採択されました。
その内容は、「ウィーン宣言」でスローガンとして掲げられた「女性の権利は人権である」という言葉が明記され、「女性に対する暴力」「女性の人権」「女性とメディア」など12項目が取り組むべき課題として設定されたのです。
 
この流れにそって日本も「男女共同参画2000年プラン」を制定、2000年までに実現すべきこととして、4つの基本目標を掲げ、その下に11の重点目標を掲 げました。
基本目標と11の重点目標
1.男女共同参画を推進する 社会システムの構築
 ①政策・方針決定過程への女性の参画の拡大
 ②男女共同参画の視点に立った社会制度・慣行の見直し、意識の改革
2.職場・家庭・地域における男女共同参画の実現
 ③雇用等の分野における男女の均等な機会と待遇の確保
 ④農山漁村におけるパートナーシップの確立
 ⑤男女の職業生活と家庭・地域生活の両立支援
 ⑥高齢者等が安心して暮らせる条件の整備
3.女性の人権が推進・擁護される社会の形成
 ⑦女性に対するあらゆる暴力の根絶
 ⑧メディアにおける女性の人権の尊重
 ⑨生涯を通じた女性の健康支援
 ⑩男女共同参画を推進し多様な運択を可能にする教育・学習の充実
4.地球社会の『平等・開発・平和』への貢献
 ⑪地球社会の『平等・開発・平和』への貢献
振り返ってみて、今の時代に、これらの目標がどこまで達成されているでしょうか。
さて、この時代のもう一つの大きな出来事は、男女雇用機会均等法(以下、均等法)の改正です。
1997年、改正された均等法は、法律としての実効性が大きく前進しました。
まず、女性に対する差別の努力義務規定が禁止規定となりました。例えば募集・採用・配置・昇進などについて、当初の均等法は努力義務にとどめていましたが、今回の改正で女性であることを理由とする差別的取扱いが禁止されたのです。

これにより、募集・採用から定年・退職にいたるすべての段階で、事業主が女性に対して差別することが禁止されたのです。

一方で、女性のみの募集や配置など女性に対する優遇については、女性の職域を固定化するなどの弊害をもたらし、女性に対する差別にあたるとして新たに禁止されました。

また、男女の労働者の間に生じている差を解消するための取り組み「ポジティブアクション」に対し、国が相談や援助を行うことができる規定が創設されました。

職場におけるセクシュアルハラスメントを防止するため、事業主が必要な配慮をしなければならないとする規定も創設されたほか、保健相談・産前産後休暇などの母性健康管理措置も義務化されました。

調停制度はそれまでは当事者双方の合意が必要だったものが、一方からの申請により可能となったほか、差別規定に違反している事業主が是正勧告に従わなかった場合は、企業名が公表されることになりました。

こうした女性差別解消の流れの中で、職種の表現も変わり、性別的に中立に表現する形で募集が行われるようになりました。例えば「保母」は「保育士」に「看護婦」は「看護師」にという具合です。

さらに労働基準法も改正され、女性に対する深夜労働や時間外・休日労働の制限が撤廃されました。
この結果、それまで実際に残業をしていても「本来深夜労働するはずがない」として残業代の請求ができなかった女性労働者に残業代がきちんと支払われるようになりました。
しかし、一方では、深夜や長時間労働が可能となったことで、子育てや介護と仕事の両立が困難になったり、健康を害する女性もあらわれました。

大きく前進した均等法ですが、男性の目から見ればまだ問題が残っていました。
それはこの均等法がそもそも女性差別をなくすという観点から制定された法律なので、男性であることを理由にした差別があっても、それを規制することができなかったのでした。
そのため、男性であるという理由で看護師や保育士になれなかった男性もいたということで、この法律が男女両性に対する差別をなくす形になるまで、まだしばらく時間がかかります。

この時代をしめくくる動きは、1999年(平成11年)に施行された男女共同参画基本法でしょう。先に述べた男女共同参画2000年プランを実現するための法律で、
(1)男女の人権の尊重、
(2)社会における制度又は慣行についての配慮、
(3)政策等の立案及び決定への共同参画、
(4)家庭生活における活動と他の活動の両立、
(5)国際的協調

の5つが基本理念として掲げられました。
男女が互いに人権を尊重しつつ、能力を十分に発揮できる男女共同参画社会の実現のために作られたもので、家庭生活だけでなく、議会への参画や、その他の活動においての基本的平等が理念としてあげられ、それに応じた責務を政府や地方自治体に求めています。

この法律により、男女の権利がより平等になった一方、その差を縮めるためのポジティブアクションについては、日本をはじめ各国で「自由な競争がさまたげられる、女性を優遇することで男性が差別される」などの反対意見もでています。しかし、日本でも国家公務員採用試験にしめる女性の合格率が伸びるなど、着実にその成果はあがっています。
男女共同参画社会基本法の制定は、一つの到達点であるとともに、21世紀に向けた新しい社会の構築の出発点でもあるといえます。

 

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