100年の歴史と女性たちDECADE⑥
【1941年(昭和16年)~1950年(昭和25年) 】

~ トレンド ~

この時代の主な出来事

◎太平洋戦争開戦(1941年)
◎終戦(1945年8月15日)
◎新日本国憲法施行(1947年5月3日)

1940年代は前半が戦中、後半が戦後という時代、
終戦の1945年を境に社会も人々の暮らしも大きく変化しました。

戦争中は、目に見えない軍部による圧迫や、物資の不足などから、生活そのものが苦しく、その中で夢を追ったり、人生そのものを楽しむ余裕もありませんでした。

そして終戦、日本は連合国の占領下となります。日本を直接統治した
GHQ(連合国最高司令官司令部)は事実上アメリカであり、その政策下で
アメリカ文化の影響を強く受けることになります。

GHQが行ったのは言論統制でした。新日本国憲法では言論の自由がうたわれていますが、その一方でGHQは軍国主義や戦前の日本の肯定、GHQ批判などを封じたのです。

と同時に、アメリカ文化を浸透させるためにハリウッド映画の配給窓口会社「セントラル映画社」を東京に設立しました。

太平洋戦争開戦により、アメリカ映画の日本支社はすべて閉鎖・解散されていたため、戦争終了とともに再開、「キューリー夫人」などが公開されました。

その後アメリカ映画会社各社からたくさんのアメリカ映画が輸入・公開されるようになり、映画を通じてアメリカ文化が日本に浸透、その生活スタイルやファッションは女性にも大きな影響を与えました。

たとえば1949年に公開された若草物語(原題 LittleWomen)、
当時若い女性たちに圧倒的に人気があった人気画家・中原淳一が、雑誌「それいゆ」などで紹介しました。

主人公4人の姉妹の生活、衣装、髪形などは、女性たちのあこがれとなりました。

中原淳一は女性誌「それいゆ」を立ち上げ、女性の暮らしを新しく、美しくすることを目的に、さまざまな情報を紹介していました。

戦後の貧困のために夢を忘れがちな時代にお金をかけなくても楽しく愉快に暮らせるようにと、雑誌を通じて若い女性に夢を送り続けました。

当時はやったものに西洋人形があります。

西洋人形に象徴される女性の姿は、長い睫、大きな瞳、長い手足、すべてが遠い世界、西洋への憧れでした。

その衣装はフリルやリボンをふんだんに使った、「ロープ・デコルテ」この時代の公式な場での女性の正装・礼服でした。自分でも身に着けてみたいと憧れたのでしょうか。

戦争中は退廃的だ、不健康だとして、軍部から圧迫されていましたが、そうした人形を飾るようになっていったのも、生活の洋風化とともにでした。

戦後にできた英語の教科書「ジャックアンドベティ」もそうした傾向に一役かったといわれています。

題材として扱われたアメリカの生活は、明るい家庭、広い家、緑の芝生などが
いきいきと描かれ、日本の当時の生活と比べて憧れの対象となったのでした。
車があり、洗濯機や冷蔵庫といった家電に囲まれた生活でした。

外国映画にでてくる女優への憧れと同時に、宝塚歌劇もまた
女性たちの人気となりました。

宝塚大劇場は、戦争中は閉鎖され、戦後もGHQに接収されていましたが、劇団員らの陳情の結果、1946年、接収が解除され、歌劇カルメンの公演をもって再開されました。

越路吹雪さん、新珠三千代さん、乙羽信子さんらが絶大な人気を博し、彼女たちを追っかける少女たちの姿が新聞にも掲載されたほどでした。

生活は年を追うごとに少しずつ豊かになりました。最新のファッションや流行の品物は、これまでのように、雑誌や映画で見るものから、実際に自分たちの生活の中に入ってくるようになりました。

雑誌ソレイユなどには、ヨーロッパやアメリカの最先端のファッションや生活様式が紹介されていましたが、それらが日本に入ってきます。

1947年、パリのコレクションでクリスチャン・ディオールが発表した新しいシルエット「ニュールック」もその一つです。

これまでの直線的なフォルムとは異なり、布地をふんだんに使った長いフレアスカートは、
物資が不足し、デザイナーが1着の服に使える布の量さえも制限されていた頃は想像もつかなかったでしょう。

この「ニュールック」は世界的なセンセーションを巻き起こしました。日本の女性にも大人気となり、女性たちはこぞってこのファッションを取り入れました。

服装が変われば、髪型も変えたくなります。

すでに日本で広がり始めていたパーマは、戦争の勃発と共に、華麗なおしゃれはよろしくないという軍部の圧迫の下、「パーマネントはやめましょう」という標語まで作られ、実質的に禁止されていました。

厳しい規制も終戦により解消され、女性の美に対する欲望が一気に解き放たれたのは、ファッションと同様です。

パーマネントは急速に普及し、40年代の終わりには現在のパーマ(コールドパーマ)が生まれています。

銀幕の中で輝くオードリー・ヘップバーン、マリリン・モンロー、女性たちの間では、彼女らと同じ髪型、前髪を大きくカールしてアップした「ウェーブヘア」が流行り、お嬢様の雰囲気を醸し出すモダンなスタイルとして人気を博しました。

外国映画は日本に洋風のファッションや生活スタイルを紹介し、実際にその文化が輸入されましたが、一方で日本映画も復活しました。

「そよ風」の主題歌「りんごの唄」が大ヒット、日本映画初のキスシーンがある「はたちの青春」がヒットするなど、明るく開放的な映画の流行が人々の間に開放感を高めていきました

開放感の高まりは、新しいファッションをはやらせ、美しく着飾った女性たちは、見られることへの抵抗もなくなっていきます。

水着のモデルやファッションショー、ミスコンテストが盛んになっていった時代でした。

人前にでてその美しさを競う、戦争中には考えられないシーンが見かけられるようになりました。
日本の復興とともに女性たちも自由に流行を追うことができるようになった時代でした。

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