100年の歴史と女性たちDECADE⑪
【1971年(昭和46年)~1980年(昭和55年) 】

~ 時事 ~

1970年代、それは戦後の高度経済成長期が終わり、二回にわたるオイルショックに見舞われ、経済が混乱した時期でした。

70年代の初めはまだ、高度経済成長の流れが残っていて、日本はヨーロッパやアメリカとの貿易で黒字を積み重ねて、好景気を享受していました。

アジアとの関係においても1971年(昭和46年)に国連に加盟した中国との間で、国交正常化を進め、翌年には、当時の田中角栄首相が中国を訪問し、日中共同声明を出して、国交を回復しました。これにより両国間の貿易も拡大しました。

また、1972年(昭和47年)に沖縄がアメリカから日本に返還され、それ以降は本土並の生活水準を目指して、公共投資に力が入れられた時代でした。

国内では、田中首相が公約として掲げていた「日本列島改造論」が日本中にブームを巻き起こしていました。

女性の職場進出も増え続け、70年代には雇用者総数の3分の1が女性となり、その過半数が既婚者でした。仕事を続ける女性が増え、結婚や出産でいったん退職した女性も育児が一段落したところで再び働きだしていました。

しかし、世の中にはまだ、「結婚や妊娠・出産を機に退職し、家事や育児のために社会の一線から退くのが女性の働き方」という考えも当時は根強く残っていました。

職場などにおける男女差別については、労働基準法で男女間の賃金差別を禁じていただけで、それ以外には、性別だけを理由としたさまざまな差別が残っていました。

企業への就職もその一つでした。採用は短大や高卒が主で、4年制の大学を卒業した女性の採用は非常にわずかでした。採用が行われていたのは、教職や公務員、マスコミや外資系など限られた職種でした。

差別は1985年(昭和60年)に男女雇用機会均等法が成立し、男女平等の待遇が規定されることで解消しますが、結果として、その成立を後押しする形になったわけですが、この時期、いくつかの訴訟が起こされ、女性側が勝訴しました。

女性が結婚したら退職を要求される結婚退職制度や、妊娠・出産などによる退職制度、男性よりも女性のほうが定年の年齢が若い男女別定年制などがその対象となり、どれもが憲法違反とされました。

また交通事故で家事労働ができなくなった主婦に対して、その家事労働は外で働く女性の労働と変わらないとして、家事を行う主婦の給与は、働くすべての女性の平均給与の80%に相当するとした判決も出されました。働く女性だけでなく、主婦の家事労働の経済価値も積極的に認められるようになっていました

こうした流れをうけて、女性が、職業生活と育児や家事などの家庭生活の調和を図ることができることを目的として、勤労婦人福祉法が1972年に制定されました。

この法律は、育児休業制度について初めて法的に取り上げるなど注目すべきところもありましたが、基本は福祉法であり、事業主や地方自治体、国などに対し、女性に対する基本的な考え方をまとめたもので、男女の平等な待遇を求めたものではありませんでした。

その後も女性の職場進出は進み、男女の雇用均等についての法的整備を求める機運も高まりました。

一方で、家庭生活は大きく翻弄されました。

1973年(昭和48年)10月、日本を第一次石油ショックが襲ったのです。
第4次中東戦争の始まりです。

アラブ石油輸出国機構(OAPEC)は、原油価格を引き上げ、生産そのものも削減、イスラエルを支援する国に対しては禁輸などと決めました。
アメリカと同盟関係にあった日本は、イスラエル支援国家と見なされる恐れがあったため、中東に当時の副首相を派遣して説明するなど対応に追われました。

石油価格は世界的に高騰し、原油の輸入価格は約4倍に跳ね上がり、日本の貿易収支は赤字に転落しました。
日本国内は田中首相の列島改造ブームで地価が急騰し、インフレが進行していたところに、原油価格の高騰による便乗値上げが相次ぐなどしたため、インフレが加速し、狂乱物価と呼ばれるほどになりました。

原油価格とは直接関係がない、トイレットペーパや洗剤の買い占めが起きました。さらにそれは砂糖や醤油などにもおよび、今買わないと買えなくなるといった噂が広まったため、スーパーでは開店と同時に品物が売り切れるといった現象が起き、店側も一人一点といった制限を行いましたが、それがまた消費者の不安をあおる結果となりました。

このころ、社会で大きな話題となったのがコインロッカーベイビーです。

高度経済成長を経て、人びとの生活が大きくかわりましたが、その中で自動化・無人化といったサービスも生まれてきました。コインロッカーもその一つで、始まりは1950年代ですが、このころには全国の駅に設置されていました。

そのコインロッカーに生まれたての赤ちゃんを遺棄する事件が相次いだのです。

それまではいわゆる捨て子は、その子が少しでも生き延びるようにと、発見されやすく、また保護されやすいように、養護施設などに放置されたのですが、1971年(昭和46年)に初めてコインロッカーで乳幼児の遺体が発見されたのを皮切りに、1973年(昭和48年)には1年間に大都市のターミナルを中心に43件もの遺棄事件が発生しました。

遺棄事件を巡って検挙されたのは、その多くが未婚の女性でした。

豊かな生活を謳歌し始めた若者たちの中には、出産・育児に対応できず、生まれてきた子供を持て余した結果、コインロッカーに遺棄するというケースが増えていたのでした。

時代は第二次ベビーブームを迎えていました。

戦後すぐの第一次ベビーブームに続いて1971年(昭和46年)~1974(昭和49年)年にかけては、出生数が年間200万人を超え、1973年(昭和48年)には209万1983人とピークを迎えました。

第一次ベビーブーム世代が、結婚・出産時期を迎えたわけですが、その後日本は少子化の一途をたどり、2016年(平成28年)には97万人あまりと100万人を割る事態となっています。

ベビーブームの陰に、こうした遺棄事件がおきていたのは、残念なことだったといえるでしょう。

1970年代、女性の地位向上をめざす動きは世界的な広がりをみせ始めていました。

1975年(昭和50年)、国際連合の主催で世界各国の代表が集まり、向こう10年を国際婦人年として、各国、各機関、各団体が女性の地位向上のために、それぞれの実情に応じて目標を選び、
行動することを呼びかけました。国際婦人年の始まりです。

その場となったのが、メキシコで開かれた「国際婦人年世界会議」です。
テーマは「平等・発展・平和」、世界133か国から政府代表やNGOなど1000人を超える代表らが参加し、メキシコ宣言とそれを具体化するための指針として、「世界行動計画」が採択されました。

日本でも世界会議終了後、内閣総理大臣を本部長とする「婦人問題企画推進本部」を設置し、女性の地位向上に関する初めての総合的な計画として「国内行動計画」を策定しました。

この年、日本で初めての育児休業法が成立しました。

といっても、公務員の女性教師や看護婦・保母を対象とするもので、すべての女性を対象としたものではありませんでしたが、それでも育児休業の申請があれば原則として許可しなければならないものでした。しかしこれは「努力義務」だったために、実際に育児休業を取得できた女性は非常に限られていました。

すべての労働者(男性も)を対象とする育児休業法ができるのは1991年です。

国際婦人年が始まった1975年、男女差別はまだまだ、社会のさまざまな場面で見受けられたのです。

男女の役割を巡って話題になったCMもその一つです。

インスタントラーメンのテレビCMで「ワタシ、作る人、ボク、食べる人」というフレーズが流れました。そのフレーズが男女の性別役割分業を固定化する、簡単にいえば「料理を作るのは女性だと決めつけている」といった反発が起き、放映は2か月で中止されるという騒ぎとなりました。
このCMがテレビを通じて全国な流れたため、全国的な話題となったのでした。

また、「Gパン論争」もありました。

大阪大学でGパンをはいて授業にでようとした女子学生に対し、アメリカ人の非常勤講師が「Gパンの女の子は出ていきなさい」と発言し、授業への出席を拒否したものです。

マスコミの取材に対し、この講師が「Gパンは作業着であり、女性にはエレガントであってほしい」といった趣旨の意見をのべたことから、「女性にあるべき姿を強制するのはおかしい」「女性差別だ」という学生側と対立することになり、全国的な話題となりました。

男女の差別をなくし、女性の地位を高める運動を支えるために、埼玉県に日本で初めての国立婦人教育会館が設立されました。この施設では女性に関する研究への情報提供や研修、会議の開催などが行われ、その後は各地方自治体に相次いで設立されるようになりました。
これらの施設はその後、「男女共同参画センター」と名称変更されて現在にいたっています。

1976年(昭和51年)には戸籍法が改正されまた。

結婚して名字を改姓した女性が離婚後も結婚中の名字を使うことができるようになったのです。

それまでは結婚して改姓した人は、離婚したら自動的に旧姓に戻ることになっていました。
しかしそれでは社会生活上不便なことも多く、また子供と姓が違うといった問題がおきるなどしたためです

70年代最後の年、1979年(昭和54年)には国連で女子差別撤廃条約が採択されました。

この条約は男女の完全な平等達成のために貢献することを目的として、女性に対するあらゆる差別を撤廃するというのが基本理念です。
そのために、女子に対する差別とは何かを定義し、撤廃のための適切な措置をとることを求めています。

この条約をきっかけに、女性の差別撤廃にさまざまな措置がとられるようになります。

男女共修もその一つでした。

これは「家庭科」の男女共修という意味で、1973年(昭和48年)に高校での家庭科授業が女子のみ必修となったことから、家庭科は男女共修にという運動がおきました。

家庭科は小学校においてはずっと男女共修でしたが、中学では技術・家庭科として行われ、一部でその学習内容に男女の差があると指摘されていました。また、高校では共学の選択科目として履修されていましたが、女子の必修化に伴い、選択しない男子は体育を履修しました。
そのため、男子で選択したものは、生徒数でおよそ1%の比率だったということです。

その後女子差別撤廃条約を批准するにあたって、男女別履修が条約に抵触するのではないかという恐れから、家庭科は最終的には男女とも必修へとつながっていきます。

この頃、日本社会は、第二次オイルショックに見舞われていました。
1978年(昭和53年)におきたイラン革命によってイランの石油生産が中断、大量の原油の輸入をイランに頼っていた日本は需給が逼迫し、原油価格が高騰しました。

値段は2.4倍に上昇、ヨーロッパやアメリカは失業率が10%を超えるなど大きな影響がでました。

しかし、日本は第一次オイルショックの経験を通じて、社会の省エネ化も進み、一次のときほど深刻にはならず、オイルショックを乗りこえたのでした。

オイルショックを乗り越えた日本ですが、時代は戦後の高度成長期が終わり、低成長期に入ってからは福祉政策の見直しが行われるようになっていました。

1979年(昭和54年)には自民党が日本型福祉社会を創造するとして、「家庭基盤の充実に関する対策要項」を発表しています。

その中では、年老いた親の扶養と子供の保育・しつけは第一義的には家庭の責任とし、その一方で、家事や育児に専念する女性や家庭生活に大きな影響を与えない程度に労働している主婦に有利となるような税制が提案されました。

これらは1980年(昭和55年)の民法改正で、それまで3分の1だった妻の相続分が2分の1への引き上げられたことや1987年(昭和62年)の「配偶者特別控除」などの政策に反映されました。
 
これらの政策は、主婦の労働についてその価値を認めていますが、女性の就業や結婚後の共働きに対して抑制する面もあり、独身世帯や共働き世帯と比較して専業主婦や妻の収入が一定以下の世帯だけが税制上の優遇を受けるという結果にもつながりました。

1980年(昭和55年)、女子差別撤廃条約は、日本を含む51か国が署名しました。
日本もこの条約を批准したことが、男女雇用機会均等法制定へとつながっていきます。

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