100年の歴史と女性たちDECADE①
【1917年(大正6年)~1930年(昭和5年) 】

~ 時事 ~

今からちょうど100年前
1917年は元号でいえば大正6年
少女漫画として大ヒットした「はいからさんが通る」の舞台となった時代といえば
イメージがわく人も多いのではないでしょうか。

元号が明治から大正に代わって6年が経過……

政党や資本家が急速に勢力を持ち始め民主主義の拡大を目指した
いわゆる大正デモクラシーの時代でした。

世界を見渡せば、1914年(大正3年)に始まった
人類史上初の世界大戦「第一次世界大戦」は
翌1918年(大正7年)に終結。

日本はイギリスやフランスと共に、連合国側の一員として参戦していました。
相手国はドイツ。
そのドイツが当時勢力を伸ばしていた中国や南洋諸島が日本にとっての戦場となっていました。
世界中で男性が兵士として戦場に出て行ったため
主たる働き手としての女性の社会進出が始まっていたのです。

例えば、消防士や警官、バスの運転手など
もちろん兵器工場で働く工員もいました。

当時、世界中の女性が、家庭を守るという伝統的発想を持っていましたが
戦時中の勤労動員が女性の社会進出を促す形となったのでした。

日本の女性の社会進出もまた、第一次世界大戦と関係があるといっても過言ではありません。
早く終わるとみられていた戦争が長引き、総力戦となったことから
ヨーロッパの国々からの東アジアへの輸出が減少しました。
その隙を狙って日本製品がアジアの市場を独占する形となりました。

当時の日本は紡績が盛んでしたから
綿糸や綿織物などがどんどん輸出され
また、軍需品を運ぶために船舶の需要が高まり、造船業が発展
日本がアメリカ、イギリスに次ぐ世界第三位の造船国となったのもこの頃でした。
それに伴い鉄鋼業なども発展し
重工業が栄え工業生産額が農業生産額を上回りました。

主たる戦場はヨーロッパでしたから
国土が直接の戦火から免れたこともあって
この時期日本はどんどん輸出を伸ばし
大戦バブル、大正バブルなどと後に語られる時期を迎えていました。

労働生産は伸び、輸出は増えましたが
それと共に物価が上昇、インフレ状態が続きました。
米の値段もどんどん上がっていき…

この時期、日本の米の生産量は消費量にくらべると足りず
アジアの国々から米を輸入し対応している状況でした。
しかし、それらの国はほとんどがヨーロッパの植民地であったため
戦争になってからは物資が不足し
日本への輸出がストップしていたのです。

一方、日本国内は、産業の発達で都市部の人口が増加
それに合わせて主食である米の消費も伸びました。
しかし生産の現場である農村は、働き手が都市に出ていったことで人口は減少
米の生産量も増えません。

輸出が伸び、景気が良くなっているように見えるのに
自分たちの生活はいっこうに楽にならない。
当時の主婦たちがそんな不満を抱くようになったのも無理はありません。

米屋は売り惜しみを始め
企業は買占めに走り…
米がどんどん市場から姿を消していきます。

日本人にとって米というものは、食生活の中心ですから、その値段に女性たちは敏感です。

ついにその不満が爆発したのが
米どころと呼ばれた富山県で1918年に起きた「米騒動」です。

自分たちの地域で取れたコメが船に積まれて他の地域へ運ばれていく。
漁村の主婦が立ち上がったのは
毎日米を積んだ船が行き来するのを見ていたことが
引き金だったのかもしれません。

米の値下げを求めた「米騒動」は、一気に全国に広がりました。

最終的には、軍隊までが出動し、騒動を収めました。
この間に米の値段はさらに上がり
1918年に1石15円だった米価は
1920年には50円を超えたという記録が残っています。

米騒動の要因の一つとなった都市への人口集中は
第三次産業の拡大をもたらし
安価な労働力の需要が高まりました。

女性が労働の担い手として必要とされる時代になったともいえます。

当時の女性の労働といえば、まず「女工」という言葉が思い出されます。
明治の終わり、日本の工業化が紡績や製糸業といった繊維産業を中心に広がりました。
それに従事する労働者の大多数は「女工」と呼ばれる若い女性で、低賃金で、過酷な条件や環境の中で働かされていました。

そうした事情は、このころ出版された細井和喜蔵の「女工哀史」で広く知られています。
細井は妻の労働経験をもとに、この本を著したと言われています。

尋常小学校を卒業したばかりの10代前半の少女らが
朝から晩まで長時間にわたって働かされていました。
結核の病に倒れた少女も少なくなかったと聞きます。

1920年(大正9年)に行われた日本初の国勢調査によれば
日本の就業人口は約2700万人、女性は1000万人ほどでした。

女性の4割は農業などの第一次産業に従事していましたが
第三次産業にも3割が従事していました。

職業婦人という言葉が生まれたのもこのころです。

女性たちは、従来男性の仕事とされてきた事務的で専門的な分野に加え
第三次産業とともに新しく生まれた仕事に就くようになりました。
教員や女医、タイピストや電話交換手
バスの車掌(バスガール)や通訳といった仕事も女性の仕事でした。

1903年の「女子職業案内」には、女性の職業について
「女性に合わないものはないが
男性と対抗していかなければならないので
女性に適切と思われるものから進める。
その性質は男性と差異がある」
として

1.温順・親切
2.綿密・丁寧
3.美的感情に富む

この3点をあげ、その例として

1は看護婦や教員
2は通信事務や金銭出納、商品売買
3は画家や音楽家

を上げています。

例えば電話交換手はもともと男性の仕事でしたが
1900年代の初めには、男性交換手が撤廃され
すべて女性が行うようになりました。

その理由として
基本的には女性がそもそも低賃金であるという当時の社会情勢がベースにあり
その上で、「女子職業案内」に示されたように
丁寧であるという女性の性質、また技術の発達で
女性にもこの業務ができるようになったことがあげられます。

女工哀史に見られた、低賃金、肉体労働という仕事から、女性の仕事は頭脳労働の分野にも少しずつ広がっていきました。

この背景には、女性の高等教育への関心の高まりがありました。

それまで小学校での義務教育を終えた女性のほとんどが
女工として働きにでたり、家で行儀見習いをしながら家業を手伝ったりしていました。

しかし、もっと教育を受けたいという女性たちが増え
その思いを表すかのように中等教育への進学率は
1915年に12.6%だったものが
1925年には24.9%とほぼ倍増しました。

さらにその中から高等教育を目指す女性も現れました。

それまでは女性の大学(旧制)進学は認められていませんでしたが、
1913年には、初めて3人が、今の東北大学に入学しました。
いわゆる女子大生が生まれたのです。

1919年には大学令が出され
当時既に大学と認められていた帝国大学とは別に
公立や私立の大学設立が認められました。
私塾であった慶応義塾や
専門学校として設立された早稲田・明治・法政・同志社なども大学として認められ
これらの大学はその後、女性にも門戸を開いていきます。

女子の専門学校も次々と設立されました。
現在の聖心女子、東京女子、津田塾などです。

一方で、日本社会は深刻な恐慌に襲われていました。

第一次世界大戦が終わってしばらくは復興需要が続きましたが
復興を遂げたヨーロッパが日本からアジア市場を取り戻すために輸出を始めると
競争力の弱い日本はそのシェアを失っていきました。

不況になり中小の工場がつぶれ
また合併などで数が減少するなどして
働き口を失う人がでてきました。

1923年には関東大震災が日本を襲います。

経済が疲弊しているところへの大災害は日本経済に大きな打撃を与えたのは言うまでもありません。

当時、中国などへの輸出で事業を拡大していた大企業は
それぞれの銀行を中核に財閥を形成
豊かな資本を武器に、当時から政治への発言力をもっていた彼らは
恐慌からの救済を政府に求めました。
政府も資金を貸し付けるなど救済措置を取ります。
その資金は新興財閥の救済に当てられたわけですが
最後には大きな財閥のもとに吸収され
財閥はますます大きくなり経済を独占していきました。

当時の大財閥といえば、もちろん三井、三菱などですが、
それを上回る売り上げを誇ったのが鈴木財閥です。

その中核をなした鈴木商店は
神戸における砂糖の取引で成功
第一次世界大戦を機に中国への輸出や、工場建設なでで事業を拡大していました。

この鈴木商店を率いたのが、鈴木ヨネでした。
1894年に夫の岩治郎が他界したあと、ヨネは
「夫とともに闘ってきたこの店ののれんを降ろすわけにはいかない」
と、二人の番頭を抱えて、鈴木商店を盛り上げたのです。

そして1917年には年商で三井物産を抜いてトップとなりました。

しかし、米騒動で本店が焼き討ちにあい
不況と関東大震災の影響もあって
1927年、遂に事業停止に追い込まれました。

こうした状況のなか、労働者たちも苦しい生活をなんとかしたいと団結し
自分たちの代表を議会へ送り出そうという労働運動が活発になってきました。

初めてのメーデーが行われたのもこの頃でした。

自分たちの代表を政治の世界に送り出す
民主主義の基本が多くの人たちの意識に生まれ
実際にその方向に動き出した時代、いわゆる大正デモクラシーです。

その思いが普通選挙運動へとつながっていきます。

当時選挙権はごく限られた一部の人間にしかありませんでした。
男女や財産や身分に関係なく選挙権をという願いはかなわず
25歳以上の男子のみに選挙権を与えるという普通選挙法が1925年に成立しました。

女性を差別したままですから決して本来の普通選挙ではありません
まだまだ不完全なものでした。

世界的に見ると
女性に参政権が与えられたのは
1893年のニュージーランドが最初
ドイツは第一次世界大戦後の1919年
アメリカが1920年です。

日本は第二次世界大戦後を待たないといけないのですが
だからといって当時の女性たちも何もしなかったわけではありませんでした。

1920年には平塚らいてう、市川房江らが新婦人協会を発足させました。

この協会の目的は、治安維持法の改正でした。
治安維持法には女性の集会結社を禁じた条項があったことから
その撤廃を求めたのです。
社会に関心を持ち始めた女性が
集まったり、政治的な話を聞くことすら認められなかった時代だったのです。

この条項は2年後には撤廃されました。

しかし、国家による規制は厳しさを増していきます。

日本は、日清・日露戦争の勝利をへて
また第一次世界大戦における戦勝国の一員として
アジアに勢力を伸ばしていました。

同時に朝鮮では日本からの独立運動
中国では排日運動が激化していました。

日本はアジアや南洋諸島の既得権益を守ろうとして
アメリカやヨーロッパの国と対立するようになります。

戦争というものを身近に感じる時代
そして女性もまた戦争に少しずつ、巻き込まれていったのでした。

この時代、日本最大規模の婦人団体がありました。
「愛国婦人会」です。

愛国婦人会は、上層階級の婦人や皇族、貴族により
最初は戦争で亡くなった兵士の遺族らの救護を目的として設立されました。
明治の終わりのころです。
1927年には関東大震災で被害を受けた人の救済など
一般の人への救済活動も目的に加えられ、その活動の場を広げました。

実践女子大学の創立者、下田歌子は
この愛国婦人会の設立者の一人で
その後会長も務めました。
婦人のための職業紹介所や保育所設立などに
尽力したことも知られています。

愛国夜間女学校という貧しい勤労少女のための学校を作ったのも彼女でした。

1925年に成立した普通選挙法は
「25歳以上の男性のみに選挙権を与える」
という不完全なものではありましたが
財産や身分にかかわらず、広い階層の人たちが政治に参加できることになりました。

しかし、政府はそうした人たちの社会運動が激化するのではと考えました。

そのため、同時に制定されたのが
こうした運動を取り締まることを目的とした治安維持法でした。

この法律はその後、自由主義や民主主義運動までをも取り締まることになり
市民の生活に大きな影響を与えていきます。
普通選挙の実施が
一方で社会運動を取り締まるきっかけとなった
ということになります。

戦勝国なのに、生活は苦しい。
社会の中で人々の不満がたまっていきます。

1929年、世界は大恐慌の年を迎え
その影響は日本にも及びました。

大正デモクラシーの花が咲き
女性の活躍の場が都市を中心に広がりを見せはじめた時代は
少しずつ次の戦争へと動き出していたのです。

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