「社会と女性と法律と」その5
【1945年(昭和20年)衆議院選挙法改正】

~女性も選挙に参加できることになったけど~

選挙権、特に女性の参政権については、最初から男性と同等の権利があったわけではなく、日本を始め世界各国には、女性参政権を得るための長い歴史がありました。
この参政権を得て初めて、女性が政治的に男性と平等の権利を得たことになり、それを行使することで、男性と対等に社会に参画していくことになるわけです。

その始まりがこの年でした。戦後、国民の権利や義務を改めて定めた新日本国憲法より、実は先に制定されていたのです。

☆☆☆そもそも選挙っていつ始まったの?

日本での最初の選挙は1890年(明治23年)の衆議院選挙です。その前の年に大日本帝国憲法が発布され、最初の議会を開くために行われた選挙でした。
その時選挙権を持っていたのは、当然ながら男子のみ。しかも満25歳以上で直接国税を15円以上納めていた人に限られていましたので、全人口のわずか1%に過ぎませんでした。

その後1925年(大正14年)になって納税額にかかわらず25歳以上の男子全員に選挙権が与えられました。よく普通選挙が始まったなんていいますが、とんでもない、女子には選挙権がなかったのにどうして普通選挙なんでしょうね。男子全員といっても全人口にすれば20%にしかなりませんでした。1%に比べればずいぶん増えたのは事実ですが。

☆☆☆女性の参政権獲得は大変な道のりだった?

女性の参政権園獲得をめぐっては3つの要因があるといわれます。

第一が婦人団体の運動です。

女性の参政権をめぐっては第一次世界大戦以降、世界各国で獲得運動が始まりました。日本でも戦前、男女平等の権利を求めて女性たちが運動を始めました。政治集会に参加する権利などを求めた治安維持法の改正に始まり、その後もさまざまな政治に関する権利を求めて女性たちは運度を続けてきました。

1945年10月、日本政府は婦人に参政権を与えることを閣議決定、その後国会での承認を得て、衆議院選挙法が改正されました。
この改正にあたっては婦人団体の運動の影響に加えて、第二の要因として、占領政策としてのGHQ(連合国総司令部)の指令がありました。

それは閣議決定の翌月出された「マッカーサーの五大改革指令」と呼ばれるものでした。

GHQは、ポツダム宣言に基づき,日本国民は「思想の自由,言論の自由及び宗教の自由を抑圧するあらゆるものから解放されなければならない」という見解を表明し,五大改革を指示したのでした。
一、選挙権付与による日本婦人の解放
二、労働組合の結成奨励
三、自由な教育
四、秘密警察などの廃止
五、経済の民主化

最初に掲げられた女性に選挙権を与える、この指示に従って、一気に衆議院選挙法改正へと流れが進み、国会での承認となったのでした。

この五大指令は、また触れる機会があると思いますが、戦後改革の始まりとなり、婦人参政権をはじめ、さまざまな政策につながっていくことになります。

そして第三の要因が日本政府の民主化推進です。

日本政府はGHQの考え方とは違って、女性の権利や人権といった考えに基づく男女平等という視点からではなく、法案審議の場でも女性の教育程度や政治能力、家庭に対する責任といった面からの議論が行うなど、婦人票を得て政治を安定させ、民主化を進めたいと考えていたのです。

それは次の改正で明らかになります。

☆☆☆初の女性国会議員は

1946年(昭和21年)、第22回衆議院選挙が行われました。20歳以上の男女に選挙権が与えられて初めての選挙でした。

女性の有権者数1380万人、女性立候補者79人のうち39人が当選しました。
当時の新聞は、「妻の立候補に夫の許可は要せず」との国会質疑や、「赤ん坊をおぶって投票は可能」との内務省見解など、初めてならではの戸惑いや熱気を伝えています。

また、選挙前は、女性の関心は低く、投票率も3割ほどと予想されていましたが、選挙が始まってみると男性の79%に対し、女性の投票率は67%、その結果は予想外といった報道がされています。

当選した女性議員は多くが戦争で家族を亡くしたり、空襲で焼け出されたりし、その体験から戦争反対や、食糧事情・労働環境の改善などを訴えたいという思いから立候補したといわれています。

☆☆☆女性議員も頑張っているけど

女性に参政権が最も早く認められたのはニュージーランドで1893年(明治26年)のことです。それに遅れること半世紀あまり、日本も女性の参政権が認められました。アメリカやヨーロッパはもう少し早く1920年頃が多いのですが、日本は世界で31番目でした。

最初の選挙(第22回衆議院選挙)で39人が当選した女性議員も、翌年の選挙(第23回)では、15人と激減しました。
これは、第22回は大選挙区連記制のために、男性を選んだ後にあと一人は女性でという考えから女性候補が選んだ人も多いとされ、翌年の第23回は女性候補に不利とされながらも中選挙区単記制に変更したことが大きな原因といわれています。

当時の政府は男女平等という視点より、政治目的に女性参政権をとらえていたともいえます。

女性議員の数は、その後2005年(平成17年)の第44回衆議院選挙まで第22回の39人という数字を超えることができませんでした。

2016年の数字を見れば、衆議院議員に占める女性の数は45人(9.5%)、参議院が38人(15.7%)、初めての選挙以来、あまり変化はありません。

この割合は世界と比べても、格段に低く、2015年のIPU(列国議会同盟)の資料によれば、
日本は女性議員の割合が11.6%で世界147位、G7主要7カ国で最下位です。
7カ国の中ではドイツが36.9%で世界21位、そのあとイタリア(36位)、カナダ(43位)、フランス(53位)、イギリス(66位)、アメリカ(95位)と続きます。

1億総活躍、女性参画といわれるこの時代、国会議員の数に限ってみても、女性が活躍する場はまだまだあるといえます。

世界を見れば、クウォーター制の導入など、女性議員を増やすためにさまざまな施策がとられています。多様な意見を国会に反映させるためにも、日本も女性が政治の世界で活躍できるよう、いろいろな工夫が必要なのではないでしょうか。

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