「社会と女性と法律と」その4
【1933年(昭和8年)弁護士法改正】

~工場法に続き弁護士法も…女性の人生を左右する法律には盲点がイッパイ?!~

日本初の女性弁護士の一人、久米愛さんの講演から。
「世界人口の51%が女性であるのに、この51%が社会の開発への参加からいつも取り残されているということは、人類にとり大きな損失である。
(中略)平等とは、計画決定の段階に、女が男と同等の資格で参加することである。
政治・社会や教育面での計画決定への参加である。
男は幼児のときから社会に出て計画・決定に加わるという教育と訓練を受ける。
(中略)女性は能力がないのではなく開発され訓練されていないということである
(昭和51年東村山市での講演より)

正に! とはこの事。

☆☆☆女性も法曹界で働きたい
戦前は弁護士法が改正されるまで、女性が弁護士になる道は閉ざされていました。
記録が残っている1950年当時で、女性弁護士はわずか6人、全体の0.1%にすぎませんでした。
2014年には18%にまで増えますが…、この年の女性医師の割合は20%。実際に働いている人数では
女性弁護士6,336人
女性医師 63,504人
と10倍ほどの差があります。

初の女性弁護士誕生まで、いろいろと紆余曲折がありました。

☆☆☆代言人から弁護士へ
1893年(明治26年)、「弁護士法」が制定され、「代言人」に代わって「弁護士」という名称が使われるようになりました。
日本の弁護士制度は、明治維新のときにフランスの制度を参考にしました。
大日本帝国憲法はドイツの憲法に倣ったといわれますが、このころドイツはまだ法整備が整っていなかったためです。
フランスは、アヴォッカと呼ばれる代言人とアブエと呼ばれる代訴人の二元性をとっていました。
そのため日本も1872年(明治5)に司法職務定制を定めるときに、裁判官を意味する判事や検事とともに代言人(弁護士の前身)と、代訴人(司法書士の前身)という言葉を使ったのです。
代言人には当時、資格制度がなく、誰でもなれました。そのため一部には訴訟の名を借りて金品を摂取したり、親族をかたって訴訟の場にでたりするような者もいたため、評判は決してよくなかったようです。
1876年(明治9年)には試験制度が導入され免許制となり、これに合格した者に代言人の資格が与えられましたが、試験そのものは簡単でほとんどの人が合格したといわれています。
その後、弁護士法が制定され、代言人から弁護士に呼称が代わっても、弁護士は裁判官や検察官より格下とされ、試験制度も別でした。
一方で判事や検事も、1884年(明治17年)に判事登用規則が採択されるまでは任命制でした。近代的な司法が導入されたばかりの時期で専門的知識をもった人も少なく、法廷は混乱したようです。
日本は1893年に弁護士法によって、代言人は弁護士となり、その職務に代訴人の業務も含まれました。そのため代訴人という言葉は使われなくなり、その後一般の市民の間で司法書士という法律実務家として残る形になります。
フランスは1971年になってようやく弁護士に一元化され、日本と同じようになるのですが、日本のほうがこの一元化については早かったようです。

☆☆☆女性弁護士誕生への歩み
1933年(昭和8年)、弁護士法が改正され、女性弁護士誕生への道が開けました。
旧弁護士法の第二条第一項には、「弁護士たらんと欲する者は… 日本臣民にして民法上の能力を有する成年以上の男子たること」と規定されていました。この項目が削除されたのです。
1938年(昭和13年)、3人の女性が高等文官試験司法科試験(現在の国家公務員採用試験)に合格しました。3人はいずれも明治大学専門部女子部の卒業生でした。
明治大学は当時、高文試験では全国7位の合格者数を誇っていました。ちなみに1位は東大、以下、2位中央・3位日本大・4位京大・5位関西・6位東北・7位明治・8位早稲田と続きます。
3人はその後1年半、弁護士事務所で無給の修習を行い、弁護士試補試験に合格、1940年(昭和15年)日本で最初の女性弁護士が誕生しました。
当時、修習制度は判事や検察官と弁護士は別々で、弁護士にはこうした無給の修習が義務付けられていましたが、判事や検事はいまでいう国家公務員の資格で給与をもらいながら修習をしていました。弁護士は民間で働くのだから国家として給与を払う必要がないという考えもあったようです。
こんなところにも差があったのです。
その後、後で述べる1949年の弁護士法改正とともに司法制度も変わり、判事、検事、弁護士ともに、同じ司法試験を受け、司法修習所で一緒に研修を行うことになりました。もちろんその間は給与が支給されたのですが、2011年11月からは国の財政負担悪化の観点から、その給付制度が廃止され、生活資金は貸与されることになりました。

☆☆☆女性の裁判官や検察官はいつ誕生したの?
法曹界といえば、裁判官、検事、弁護士ですが、戦前は裁判官と検事は司法省の役人として同じような立場で、現在のように互いに独立していませんでした。
女性の立場からみると、弁護士は弁護士法の改正で女性に道が開かれましたが、裁判官や検事については、もともと女性はなれないという直接的な規定はありませんでした。
しかし、当時の民法では女性は婚姻により無能力者になるとされていたことから、国の仕事は任せられないとの不文律が存在しました。
また、当時の資格試験である司法官試補採用の告示には「日本帝国男子に限る」と記載されていました。
このため、初の女性裁判官は、戦後の司法制度改革を待たねばならず、1949年に東京地方裁判所の判事補が生まれ、女性検察官も同じ年に東京地方検察庁の検事として着任しています。

☆☆☆権力から独立した弁護士として
1949年(昭和24年)弁護士法が全面改正されました。
新日本国憲法が施行され、それにあわせて日本の司法制度も改められました。弁護士はこれまでの司法省の管轄からはずれ、自治が認められました。
新しい弁護士法に基づき、日本弁護士連合会が結成され、弁護士は全国のどこかの弁護士会の会員となり、日本弁護士連合会に登録することになりました。
これにより弁護士の資格審査や登録はすべて日弁連がすることとなり、弁護士はすべての権力から独立し、自由となりました。
法曹界に占める女性の数も増え、女性弁護士にいたっては、2016年には7000人近くにまで増えました。地方裁判所の所長や、最高裁判事、弁護士会会長も生まれています。しかし、日弁連の会長をはじめ、まだ女性が経験していないポストもあり、男性に比べるとまだ十分に力を発揮する場を与えられていないというのが現状です。

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