「社会と女性と法律と」その3
【1929年(昭和4年)工場法改正】

~改正とは「改めて正しくすること」 即ち改める前は正しくなかったという事?!~

工場法ってあまり聞き慣れない法律。
今でいうなら労働基準法
その前身となる法律といえば、内容も想像がつくのでは。
そもそも工場法は、労働者を保護する法律でした。

1802年
日本は徳川10代将軍 家治の時代。
そう言われても…という人が多いかと。
田沼意次を重用し、印旛沼の干拓を行い、蝦夷地の開発を提案
果てはロシア貿易まで企画させた将軍と言えば
少しはイメージが湧くでしょうか?

その頃、イギリスで、世界最初の工場法が成立。
その内容は不十分と言われ
監督官制度を伴う実効性ある法律となったのは1833年。
紡績工場を対象に、9歳未満の児童労働の禁止、13歳未満は週48時間の労働時間制限などが制定されました。

☆☆☆工場労働者は圧倒的に女子!

日本で初めて労働者保護の法律“工場法”ができたのは
1911年(明治44年)のこと
イギリスで実効性のある工場法ができてからおよそ80年が経過しています。

当時は、国内における工場のうち半数以上が繊維工場であり
当然ながら労働者も半数は繊維工場での労働に従事していました。
繊維工場の労働者の男女比は男子が13.1%、女子が86.9%(1906年農商務省統計による)。

当時保護すべき対象としての労働者と呼ばれたのは
16歳未満の男子と女子
その数は、10人以上が働く工場の総労働者数の70%にあたりました。

保護対象となった女子らの職場環境が劣悪であったことから
この法律が生まれたと言われます。
当時の職場環境については
農商務省が作成した報告書“職工事情”に詳しく記載され
法律制定の後押しになったといわれます。

☆☆☆当時の職場事情は

1903年(明治36年)に作成された“職工事情”によれば・・・
・勤務は昼夜交代の二部制で、夜の部はいわゆる徹夜業務
・もちろん年少者や女性も業務に従事
・徹夜業務は体にもきつく、欠勤者が相次ぐ
・欠勤者の穴埋めのため昼の部を終えた女子職工らは居残りを命じられる
・居残りの女子職工は翌朝までの24時間、立ち仕事をさせられることも度々。
・さらにはそのまま翌日の昼業務に従事させられ36時間に及ぶことも

体を壊し不治の病に陥るものも続出したといいます。

☆☆☆日本最初の工場法の内容は?

工場の設備や労働条件を取り締まるために制定された工場法。
・適用対象は、職工を15人以上使用する工場
・12歳未満の就業を禁止
・15歳未満と女性は保護職工として、労働時間の上限は12時間
・保護職工は22時から翌朝4時までの深夜業禁止
・産後4週間以内の女子の就業も禁止

しかし、対象から小規模の工場がはずされ
労働制限も女子と年少者のみで
全労働者を対象としない不完全なものでした。

にもかかわらず、この法律に対しては企業が大反対。
結局法律が施行されたのは、1916年(大正5年)でした。

☆☆☆これで女性の職場環境は改善されたの?

法律は一応制定されたものの、抜け道が用意されていました。
大きな影響を受ける繊維業界が猛反対した結果のことです。

労働時間の上限規定は5年間は14時間まで
その後10年間は13時間まで延長を認める。
深夜就業も15年間の施行猶予が認められ…

これでは実質、あまり、いえ殆ど変わらなかったといえます。

☆☆☆今も昔も欧米に弱い?

19世紀以来、各国で同様の法律が制定され改正を重ねていました。
1919年に国際労働機構(ILO)のワシントン会議で採択された国際労働条約では
1日8時間・週48時間労働を定めるなど、労働条件・労働時間規制が進んでいました。
これに比べて日本の工場法は、その内容が不十分であり
その国独自の状況を考慮したとしても
“労働環境が劣悪である”として
国際的な批判が高まりました。

そして工場法は1923年(大正12年)に
最初の改正が行われました。

☆☆☆改正された内容は

適用対象は労働者が15人から10人以上の会社に
就業禁止は14歳未満(12歳→14歳)に年齢を引き下げました。
労働時間の上限も12時間から11時間に短縮
深夜業務は22時~翌朝5時までと1時間拡大
産後休業を5週に伸ばし、産前4週間の休業
さらに1歳未満の子どものための育児時間も保障されました。

しかし深夜業務は猶予期間が2年短くなっただけで
依然実態としての女性の深夜業務は続いていました。

☆☆☆女性の職場環境改善を目指して

1929年(昭和4年)工場法はさらなる改正が行われました。
この改正で女性の深夜業が全面的に禁止されました。

最初の工場法制定から18年
長い間、女性たちは過酷な条件のもとで働いてきました。
先に触れた“職工事情”や
DECADEで紹介した“女工哀史”(1925年、大正14年)には
その姿が赤裸々に描かれていました。

日本の近代産業の発展を支えた女工たちの労働環境がよ
うやく守られることになったのです。

この工場法は、国民総動員法を制定したことで
実質的にその役目を失い
労働に関する法律は
戦後の労働基準法制定を待つこととなります。

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