小笠原緑氏
小笠原緑

香川県出身。高知大学人文学部国際コミュニケーション学科卒。高松にてホテル勤務、大阪での飲食店勤務を経て2016年渡独。現在はライプツィヒにある日本食レストランのシェフを務めている。

インタビュー・テキスト: 司寿嶺
―――高松市ご出身とのことですが、転勤族だったとか?

はい。高松市で生まれて、高知県で幼少期を過ごして、幼稚園から愛媛、小4から高知。
小5で高松に戻って高校卒業するまで高松にいました。父親の仕事の関係で、徳島以外の四国内を転々としていましたね。

―――ご両親のお仕事は?

父は電気メーカーの営業マンでした。母はパートをしていましたが、結婚する前は栄養士でした。

―――みどりさんは小さい頃は何になりたかったのですか?

国会議員になりたいって本気で思っていましたね。将来議員になるには、まず小6になったら児童会長、中学に入ったら生徒会長にならないといけないな、とかいろいろと考えていたんですけど、思春期がきちゃって。結局、児童会長にも生徒会長にもならなかったです。もう興味なくなっちゃって(笑)。

―――その後は何を目指したのですか?

高知大学の人文学部の国際社会コミュニケーション学科に進みました。教員免許も取れるので、英語教師もいいかな、って。でも結局、自分は教師じゃないな、こんなのが教師って申し訳ないな、って思って(笑)。

―――教員免許は取得したのですか?

実はほぼとっていて、あとは教育実習にいけばよかったんです。でもその時すでに就職先が決まっていたし、本当に教師になりたいわけじゃないし、生徒に対しての裏切りじゃないですけどそんなふうに思えて。資格として持っておくっていう人がまわりに結構いたんですけど、でもやっぱりなんか違うなって思ったんです。あと、更新制になったんですよ。

―――更新制というのは?

それまで教員免許は一度取れば一生ものだったのですが、免許を取得しても10年ごとに免許更新講習を受けなければ失効してしまう制度に変わったんです。ちょうど私が大学生の時に法律が改正されたので、これはもう無理だと思って。

―――卒業後は?

坂出市のホテルに就職しました。結婚式場もあったので最初はブライダルプランナーをやりたくて入ったんですけど、経理に配属されて。その後ホテル内でいろんな部署をまわって、最後の方はブライダルに関われました。3年くらい働いたかな。

―――ブライダルプランナーをやりたいと思ったきっかけは?

就職活動の時に何か見つけなきゃと思って、一番なんか心にひっかかるというか、興味が持てそうだったのがブライダルプランナーだったんです。辞める前の半年ほどでしたが、本プランナーの補佐という形で担当して、花嫁の介添えも務めました。めちゃくちゃ楽しかったです。毎回感動するし。家族ってやっぱりいいな、って思います。

―――仕事としてひとの人生の門出に立ち会う、ってなかなかない経験ですよね。

はい。失敗できないし、毎回めちゃくちゃ緊張しましたけど。

―――希望の仕事もできるようになってきたのに辞めてしまったのはなぜ?

ブライダルもやりつつホテルのフロント業務もしていたんですけど、ある時先輩から「今後はフロントのリーダーになってほしいから、そういうふうに教育していく」という話をされたんですよ。やばいこれは逃げられなくなる、と思って(笑)。私、このままでいいのかな?って考え始めたんです。ホテルには料理人の人たちもいっぱいいて、その姿を見ていたらやっぱり食に関する事をやりたいなと思い始めて。たまにホテル内の喫茶店で働くこともあったんですけど、やっぱり楽しい!と思って。

―――喫茶店では、厨房ではなくフロアをやっていたのですか?

両方ですね。料理だけは料理人さんにお願いして、ドリンクとかは私が作って運ぶ、という感じでした。いろんな部署をまわって、やっぱり料理を作る側が一番いいな、と思っていた矢先にフロントチーフの話がきたので、これはちょっとちゃんと考えようと思って、転職先の飲食店を探し始めたんです。

―――すぐに見つかりましたか?

いいえ。全く決まらなくて、結構打ちのめされましたね。面接志望を送って、会社を通さずに個人店とかに直接アタックしたりして、そのうち2店舗から返事がきたんです。そのうちの1つ、大阪のお店に面接に行った時、採用を濁されたんですよ。じゃあとりあえず大阪に引っ越そうと思って、仕事は決まってないけど先に家を探して、とりあえずどこでも自転車で行けるくらいの距離で安いところを見つけて引っ越しました。それで、その店に「香川から引っ越してきました」って言いに行ったんです。そしたら、ものすごくこいつやる気があるな、って思われて。「じゃあうち入るか?」って言われて、それで働き始めたんです。

―――それは何屋さん?
小笠原緑氏
和洋折衷のレストランでした。そこのオーナーは当時30代前半でまだ若くて、でもすごく経験豊富で、ベルリンで働いていたこともあってヨーロッパにも詳しいし、すごく熱い人でしたね。

―――でもその後、4年でお店を辞めてしまうわけですよね。

途中から社員にもなれたし、新しい後輩もできたんですけど、なんせ朝から夜中まで立ちっぱなしで座るといえばお昼ご飯を食べるたったの10分。激務すぎて途中から精神的にも結構やられてきてしまったんです。インフルエンザかな、っていうくらいひどい風邪をひいた時、それでも働けって言われて、点滴うって這いながら仕事に行ったんですよ。
もちろん仕事も好きだし、オーナーも尊敬できたんですけど、やっぱり利益優先になってしまうと従業員が無理すれば儲けが出るわけで、それが飲食の世界だと当たり前、それについて行けない奴は辞めろ、っていう風潮だったんです。最初はがむしゃらに頑張ってたんですけど、いや、なんかこれおかしいよなと思って。私、このままここにいたらいつか死んじゃうな、もっと体を大切にできるところがあるんじゃないか?と思って。母親に電話して、「私もう無理だと思う」ってこぼしたら、「もう辞めたらいいんじゃない?」って言われて。

―――香川に戻っておいでって?

はい。

―――でも、戻らなかった?

今地元に戻っても、香川の人たちに胸張って出せるものってあるのかな、という思いにかられて。この店を辞めて、違うところでもう少し頑張ってから帰ってもいいんじゃないかなと思ったんです。
その後、結構有名な割烹料理店に運良く採用されました。働き始めるまでに2か月くらい間があって、その間も生きていかなきゃいけないから、知り合いの焼き鳥屋とカフェでバイトしていたのですが、眩暈が出るようになってしまって。

―――働きすぎだったんですね。

やらなきゃ、やらなきゃ、っていう思いにかられすぎていて。採用は決まったけれど割烹に入って自分はちゃんとやれるのだろうか?って不安がどんどん大きくなってしまって。給料が安いのもわかっていたし、それでもやるのか?自分、って。
もやもやした気持ちのまま過ごしていたから、それもあってか本当に立ち上がれないくらいになってしまって、やっぱり香川に帰ろうと思ったんです。そんな時に、いまいるライプツィヒの日本料理店で働いている友人が、せっかくだから香川に帰る前に経験のために2~3年こっち(ライプツィヒ)で働いてみるのもいいんじゃない?って誘ってくれたんです。心の底ではどこか香川に戻る以外の場所を求めていた自分がいたので、即決しました。ドイツ、行きます!って。