長倉友紀子氏 ※撮影:近藤愛助
長倉友紀子

静岡県出身。2008年から2012年まで四谷アートステュディウム在籍。2017年ベルリン・ヴァイセンゼー美術大学大学院Raumstrategien(パブリックアート)学科修了。ベルリン在住。エコロジーとジェンダーをテーマに、インスタレーションやパフォーマンス作品を主に展開している。
女性を中心に美術史の年表を実験的な方法を用いて制作するコレクティブ:Timeline Projectの運営メンバー。

インタビュー・テキスト: 司寿嶺

もともと日本でアーティスト活動をしていた長倉友紀子さんは現在ベルリン在住。
東日本大震災がきっかけで、作品の方向性や考え方も変わったといいます。


―――2011年3月11日、長倉さんはどこにいましたか?

静岡にいました。ちょうどこの時、静岡市とドイツのブレーメン市、相互開催の展覧会の打ち合わせがあったんです。すでにドイツから静岡に来ていた作家もいたのですが、数人は11日に成田に着く、という状態でした。
その後、メルトダウンのニュースが出たので「日本にいたらいけない、逃げろ」ってドイツの親から電話がかかってきている子もいて。私たちの感覚からすると静岡は福島から遠いし「何言ってんの?大丈夫だよ」みたいな感覚だったのですが、彼女たちはすぐに帰ってしまいました。

―――3.11の直後って、すごく不穏な感じでしたよね。何がどうなっているか誰も正確に把握していないのに「日本は大丈夫だ」と言っている人やメディアに対しての違和感もありました。

その時は私も「大変なことが起きてしまった」とは思いつつも、何が実際に起こっているのか、放射線被害はどこまで深刻なのかなど分からないことだらけでした。そこで初めてこれまで知識も全くなかった「社会」や「政治」に対して興味を持つようになりました。社会や政治の動きが自分の生活に関わっていることを痛感したとも言えます。当時、同業で尊敬していた方に「アーティストは今何ができるのか?」といった疑問を投げかけたら「アーティストと社会の動向とは関係ないのだからそんなことは考えなくていい」と返ってきて。私はその答えに納得がいかず、ずっと一人で悶々とした日々を送っていました。

―――静岡での展覧会は日本人の作家だけで開催されたそうですが、翌年はドイツ人と日本人の作家、両方参加で行われたのですよね。その際、長倉さんもドイツへ行かれたのですか?

はい。2012年の3月から1か月ほどブレーメンに滞在しました。その間、ベルリンにも足を延ばしたのですが、アートと社会が密接に繋がっていると同時に、過去と現在がアートでコネクトされていると感じました。「バンカー」という、第二次大戦中に防空壕として使われ、今は現代美術の展示会場になっている場所があるのですがそこも見に行って。当時のままのつくりの中に現代美術作品が置いてあるんです。時間が作品を通してミックスしていくというか、現在と過去の社会における問題が今生きている私たちと繋がっている感じが、日本よりも身近だなと思いました。むしろ個人的なものと思っていたアートは政治的・社会的なものと表裏一体なんだと痛感しました。

―――納得のいかなかった質問の答えが見つかった感じですね。そういったものを目の当たりにしたことが、ドイツ移住のきっかけになったのでしょうか。

そうですね。2011年の福島の事故があって、それまで作っていた絵画や彫刻のような作品を作れなくなってしまったのですが、これまでホワイトキューブに向けて、閉じられた世界に向けてしか私は作品を作っていなかったな、と思ったんです。でもそれは私にその術がなかったからであって。3.11のこともそうだし、社会に起きたことは未来に繋げていかなければいけない、と思ったときにアーティストとして何ができるかなって考えて。もう少し社会と関われる理論が欲しい、社会とアートを繋ぐ方法を学びたいと思い、ベルリンへの移住を決めました。