―――ブラジルに住んでいてびっくりしたことや印象的だったことはありますか?
いっぱいあります・・・(笑)。
家の冷蔵庫が壊れた時、日系人の方に修理の人を頼んでもらったんです。
「今日来るって。」と言われて待っていたのに、全然来ない。
担当者はブラジル人なんだけど、電話したら「ああごめんごめん、車が故障して」って。結局その日は来なくて、次の日に改めて約束したら次の日も来ない。
なんで来ないのか電話したら、「友達の携帯がどうのこうの」って、一応来られない理由はあるんだけど、ずっとその繰り返しで。
困ってブラジル人の知り合いに相談したら、車で電気屋まで行って修理工のおじさんを乗せて連れてきてくれたんです。
―――強制連行みたいな(笑)。
そうそう(笑)。そこまでしないと来てくれないの。
ただ、勝手に連れてきちゃったから、その時間に約束していた他の人のところへ彼は行けていないわけですよね。
でも、「あ、これでいいのか。」と思って。
そうやっていかないとやっていけないんだ、この国では、って。
わりと初期に気づきました(笑)。
―――主張していかないといけないんですね。
そう。自分で主張していくことが大切。力づくとかでも(笑)。
―――ブラジルにいて危険な目にあったりとかは?
あります。学校に泥棒が入ったこともありました。日中、生徒と教師みんなが教室以外の場所に集まっていた時に、子供たちの財布や、音楽プレーヤーとかが盗まれたんです。
幼稚園の子だけは私たちと一緒にいなかったので、犯人にはちあわせてしまって、口を塞がれて「誰にも話すな」と言われたそうです。
いつもは教室に鍵をかけるのですが、その日はたまたま忘れてしまって。
きっと犯人はどこかからいつも見ていたんだと思います。
ブラジルは身近なところにも犯罪が転がっている国だというのは百も承知なのですが、学校の中だけはせめて、子供たちが安心して過ごせる場所であってほしいです。
――― 学校には何歳くらいの子供たちが通っていたのですか?
4歳から高校生までいました。
3世の子とかは、おじいちゃんおばあちゃんが日本語を話すから耳はいいし、日本語をしゃべれなくても知ってる単語はあったりするんですよね。
私にとっては初めての子供に対しての日本語教育だったので、いままで大人に教えていたやり方とも違いました。
―――どんなふうに?
大人は、「これが動詞で、これが動詞の過去形」が通じるけど、子供だとまだ母語でもそこまで習っていないのでそれが通用しないんです。
体育とか、体を動かしながらその中で日本語を学んだり、工作しながら学んだり、その方がすいすい入っていきますね。言葉と行動を連動させて覚えるというか。
あと、言葉だけではなく日本文化も学んでもらおうと、試行錯誤しました。
おじいちゃんおばあちゃんが、孫が日本の歌を歌うのをすごく喜んでくれるんです。
ふるさとの歌とかを老人会で子供に歌わせると、みなさん本当に泣きますから。
「日本人は勤勉で真面目で、ブラジルの発展に寄与した」ということでブラジルにいる日系人はすごく感謝され尊敬されているから、自分に流れている血とかに誇りももってもらいたいという気持ちもありました。
―――陽子さんは子供たちに平和教育もしていたんですよね。広島のことを伝えたい、というような思いもあったのでしょうか。
はい。せっかく私が担当するなら、知ってもらおう、と思って。
―――子供たちは、第二次世界大戦前後の日本に関しての知識はないのですか?
あまり知らないですね。
私たちがブラジルの歴史を知らないように。
子供たちは日系人だけど、ブラジルの学校で日本の歴史を習ったことはないですし、世界史の中で一部分のアジア史、なんてやらないですからね。
―――日本が唯一の被爆国ということは?
それは知っています。
でもどんな被害だったか、写真とかまでは見たことがないから、詳しくは知らないんです。だから、広島出身の私が少しでもこの子たちに平和の種をまかなきゃ、と思って。
日本で教えていると、日本社会の中で、ガチガチに組まれたカリキュラムで教えないといけないので他のことを挟む余地がないのですが、ブラジルではクラスを任されて、自分でいろいろと考えて授業ができたのはありがたかったですね。
おじいちゃんおばあちゃんたちが体験してきた歴史を知ってほしかったというのもあります。
―――印象に残っている生徒はいますか?
たくさんいます!
最初はみんな幼稚園くらいからただ言われるまま学校に来ているだけなのですが、だんだん中学生とか高校生になって、日本語を習わせてもらった価値みたいなものに気づき始めるんですよね。そしてもっと一生懸命日本語を勉強するようになったり、日系社会の活動に関わってみたりと、変わっていく子たちがたくさんいました。その変化がすごく印象的でしたね。