小笠原緑氏
Noriko Minkus ミンクス 典子

福岡県出身。ドイツ建築家協会認定建築家。東京理科大学建築学科修士課程修了後、2003年に渡欧。ウィーン、デュッセルドルフ、ロンドンの設計事務所勤務を経て2010年よりライプツィヒ在住。2011年に空き家再生日独文化交流拠点ライプツィヒ「日本の家」を立ち上げ、18年まで共同代表。15年より消防署を再生する社会文化プロジェクトOstwache共同代表。働く環境を良くする設計を専門とする建築家、design2sense 勤務。2児の母。

インタビュー・テキスト: 司寿嶺
―――典子さんが建築家になろうと思ったきっかけは?

関門海峡のすぐ近くで生まれて、18歳まで北九州にいました。市内に建築家の磯崎新さんが設計した図書館と美術館があって、その図書館で中学、高校と勉強をしていたのですがその空間が素晴らしかったので、こういう建物を作る人って誰だろう?というところから興味を持ちました。もともと絵を描くことやものを作ることは好きだったので創造することには興味がありましたが、その図書館と美術館を通して「建築」という職業があることを知りました。

―――そして大学、大学院と東京の建築学科に進み、就職はいきなり海外!

日本で仕事するより海外に出よう!と思ったんです。大学院の頃の恩師である建築家の小嶋一浩さんも、学生が国外に出て設計の仕事をすることを後押しして下さっていました。それで本やインターネットで探し出したウィーン、ロンドン、パリ、ヘルシンキ、コペンハーゲンにある設計事務所に「直接そちらに行くので面接してください」って作品のポートフォリオと履歴書を送ったんです。実際に面接してもらって、決まったのがウィーンの設計事務所でした。

―――すごい行動力ですね。ウィーンに行く前にドイツ語は勉強していったのですか?

ドイツ語はほんの少しだけで、最初は英語で話していました。でも実際に現地で生活するにはドイツ語ができないと何もできないと痛感しました。部屋を借りるのも、銀行に口座を開設するのも健康保険に加入するのも、当然ですがドイツ語ができないと手続きが出来ない。結局1年間、その設計事務所で働いてから、そのままウィーンで5ヶ月、その後ドイツのダルムシュタットに移って4ヶ月間ドイツ語の集中コースに通いました。その後、デュッセルドルフにある日系企業のゼネコン設計部で2年間働いて、ロンドンに移って現地の設計事務所で1年半働きました。ロンドンにいる間に、最初のウィーンの設計事務所で知り合ったドイツ人と結婚して、そして東京に2人で戻りました。

―――なぜそのタイミングで東京へ?

私が建築家になろうと思ったきっかけの、磯崎新さんのところで働けるチャンスがもらえたからです。ちょうどドイツ・ボンにあるベートーベンのコンサートホールのコンペ(設計競技)の最中で、その頃には私もドイツ語が出来たのと、ドイツでの設計業務の経験があるということですぐに採用が決まりました。そしてコンペに勝ったらそのまま担当、といわれていたのですが残念ながら負けてしまいました。
ドイツ人の主人も建築家で、幾つか設計事務所での経験もあるし、そろそろ自分たちで独立しようかという時期でした。そう考えていた頃に、ライプツィヒで有名なモダンバレエの振付師の義姉が大きな舞台を任されることになったから2人ともドイツに帰ってこい、と連絡がきて。

―――舞台演出を手伝ってくれっていうこと?

そうです。舞台をデザインして、作るところまで全部やってくれ、と言われました。その当時私も30歳を過ぎて、子供が欲しい、子育てするならドイツと決めていたので、東京には1年間だけいて、ドイツに戻りました。


2010年にライプツィヒへ移住し、2011年に長女を出産。友人の紹介で「日本の家」プロジェクトに参加することに。


出産して3ヶ月くらいの時に、友人に紹介されて「日本の家」プロジェクトの人たちと知り合いました。ライプツィヒで空き家を再生して日本に関するイベントをする場所を作りたい、ということでした。東北震災の直後、インターネットで状況を見ているだけで自分が何も出来ないのももどかしくて、積極的に行動を起こしたいと思っていたので、立ち上げから関わりました。
最初は期限付きで、3ヶ月だけやってみようということで始めました。ところが初めてみると反響も大きく、まわりのみなさんも応援してくださったので、じゃあもう1ヶ月だけやってみよう、もう半年やってみよう、って今までなんとか続いています。
ミンクス 典子氏 ミンクス 典子氏
最初は現在の場所より北にあって、面積もほぼ倍、天井も高い空間でした。ただ住宅地で立地が悪く、まわりに同じような文化活動をしている人たちもいませんでした。それでも最初はたくさん来場者がありましたが、徐々に減っていきました。空間が大きいので冬は暖房代がものすごく高いし、お金を稼ぐ事業をしているわけではないので、もう少し家賃が安くて負担にならない場所なら続けられるかもしれない、と物件を探して、現在の場所(東地区)に移りました。
ここは最初、光熱費込みで毎月家賃が200ユーロでした。ライプツィヒ大学日本語学科のリヒター教授が、「お金が必要だったらできる範囲で支援してあげるから、なんとか続けてみたらどうか」と言ってくださって。

―――ということは、完全に先生のポケットマネーで?

そうです。毎月200ユーロの振り込みを4年間続けてくださいました。そのあと家賃が値上がりして、今はなんとか自分たちでやりくりしています。

―――家賃が上がったんですか。

そうです。200ユーロから450ユーロに。

―――倍以上!?

むしろ以前は家賃が激安だったので、ラッキーだったんです。これでもまだ同じ地区内の他の物件に比べると安い方です。

―――今、資金はどうしているのですか?

行政からの助成金はプロジェクト単位で申請して、材料費なら問題なくもらえます。ただ、家賃と人件費は出ません。
なので、実際にはキオスクとして登録している業務範囲でドリンクの売り上げを家賃の一部にまわしています。あとは個人や団体からいただく寄付でなんとかやり繰りしています。

―――結構大変ですね。

これまではやり繰りしてきましたが、さらに家賃が上がると厳しいですね。

―――日本の家プロジェクトに参加したのはなぜですか?

都市の中に、住宅と商業施設以外の空間があってもいいんじゃないかなと思ったんです。カフェやレストランって、お金を払わないと座れないじゃないですか。そうじゃなくて、お金という価値を介さずに人が集まれる場所が都市の中にあるとすると、それはどういう意味を持つのかっていうのを実践しているんです。あとは、ドイツに住む移民として自分たちで場所を確保して活動するのはどういう意味があるのか、実際にやってみています。
ミンクス 典子氏 ミンクス 典子氏
3年くらい前から毎週木曜と土曜の夜に「ご飯の会」というのをやっていて、毎回多い時には100人くらい集まります。サービスでご飯を提供するのではなくて、野菜を切るところから一緒にやって、食べたい人は払える金額を払う。そうすると移民や難民や地域の人たちが様々な目的で集まってきます。ただ食事に来るだけでなく、新しくライプツィヒに来たばかりで地域のことを知りたい、コミュニケーションを取りたいという人たちもやってきます。それだけ大勢の人たちが集まる場所となると、今度はアーティストが展示に使いたい、ミュージシャンが演奏したい、と次の目的の人たちも集まってきます。絵や写真を展示したい人は壁を使って、演奏したい人たちはご飯の会の時間に楽器を持って集まってくる。寄付を集める器がカウンターに置いてあって、使う人や来る人たちが価値を決めてお金を入れていきます。
ミンクス 典子氏
面白いのが、こんなごちゃごちゃした空間に自分の作品を飾りたくない、っていうアーティストもいるんです。でもそういう人に限って作品は大したことない。別にこちらから頭を下げて展示をお願いしているわけでもないですし、嫌悪感を示す人は後で違うトラブルに発展する可能性も大きいため、私たちからお断りしています。
むしろ、作品でこの場所の空気を変えるくらいの人のほうが偉大ですね。作品に力があれば場所の空気ってできるものですし。