―――小さい頃から画家になりたかった?
そうですね、はい。それ以外はあまり興味がなかったです。
3歳の時から兄と姉と一緒に絵画教室に通っていたのですが、親が放任主義だったので何かに対して褒められるという経験がなくて。ただ、アートのことだけに反応してくれるので、それに固執していたのだと思います。
―――ご兄弟は?
姉が4つ上、兄が2つ上、弟が4つ下の、4人兄妹です。
―――4人!お母さん大変でしたでしょうね。
本当にそうですね。今考えれば(笑)。
うちは、姉が生まれる前から自営業で自然食品のお店をやっていて。ドイツでよく見かけると思うのですが、「BIO」って書いてあるお店のもっと小さい、個人経営バージョンというか。有機野菜、お肉とか調味料、乳製品やお菓子、いろいろ取り扱っていましたね。
―――そういったお店は、当時の日本ではまだ珍しかったのでは?
はい、少なかったみたいですね。父はもともと会社員だったのですが、従業員が内部分裂してしまって。もう1人でやるしかない、ってトラック1台買って移動販売から始めたって言っていました。
それ以前も父は結構、職を転々としていて。ステレオが趣味だったので秋葉原でステレオの販売をしたりとか、雑誌の編集をしたりとか。
―――全然違う職種(笑)。
そうなんですよ。
―――お店を持ってからは、お母様も一緒に?
はい。一緒に働きはじめたって感じですね。共働きで忙しくて、でも子供もいっぱいいますし、そういう意味でなんというか、のびのびやっていましたね。躾とかされた覚えがないです(笑)。
―――萌さんは小さい頃、保育士にもなりたいと思っていたとか。
どんどん大人になっていくにしたがって、極端な話ですけど「人間の心が穢れている」ということを感じていくじゃないですか。そういうのが嫌だな、とすでに子供の頃に思っていて。
―――それは大人を見てそう思ったのですか?
まわりの友達とかもそうだし、大人もあると思うんですけど。私ちょっとノスタルジックな気持ちになりやすい性格なんです。保育園の時はすごくよかったのに、っていう・・・なんていうのかな、あのパラダイスに戻らないといけない、と思っていた時期があって。ちょっと強迫観念みたいな感じなんですけど。保育士になれば、子供と関われるし、いいんじゃないかなって。
―――ずっと保育園(パラダイス)にいられるし、みたいな?
そうですね。
―――早熟な子供だったんですね。私、子供の頃はあまり分からなかったですね・・・大人の嫌な部分とか。今はめちゃくちゃ見えますけど(笑)。
夢見がちな子供だったと思います。
―――「保育園=パラダイス」と思っていたのはなぜですか?
保育園の中って自由でいられるじゃないですか。何かを強制されることもないし。
小学校に入った時、整列して並ばなきゃいけない、みんなと同じことをしなければならない、というのがとても苦痛だったんですよ。
―――私は幼稚園に通っていたので、みんなで同じことをさせられるし全然自由じゃない。社会に出た一番最初がそれだから慣れてしまって、小学校で違和感を覚えなかったのかもしれません、今思えば。保育園でも絵はよく描いていたのですか?
そうですね。外に出たがらずに、ずっと絵を描いていたらしいです。
幼少期は、保育士になりたいっていうのと絵を描きたいっていうので葛藤していました。子供でも言われるじゃないですか。「絵描きでは食べていけないよ」って。
―――余計なことを大人は言いますよね・・・。
ね(笑)。じゃあ保育士のほうがいいのかなと思ったりして。でも最終的には絵を描くことを選びました。
―――美大への進学を、ご両親は反対しなかったですか?
反対するような親ではないんですよ。自分がやりたいことをやったらいい、っていうような親なので。
―――じゃあ、絵だけじゃ食べていけないよ、って言ったのは他の外野ですね。
そうですね。学校の先生とかですね。
「食べられるものとしての鳥」松橋 萌 2009年 段ボール、ペンキ
「網の向こう」松橋 萌 2009年 綿布、フェルト、ワイヤー、木材
卒業制作は、布を切り抜いて、枠を作ってレイヤー状にしてちょっと影絵のシアターみたいに見えるものと、大きい鳥の人形の作品を作りました。今もやっていますが、2年生くらいからは布を使ったレリーフみたいな立体を作っていましたね。