渡辺泰子氏 Photo by Takuma Ishikawa
渡辺泰子

千葉県出身。2007年武蔵野美術大学大学院造形研究科美術専攻油画コース修了。映像、羊毛フェルト、写真を中心に複数のメディアを用いて制作、発表。その他の活動として、演劇とのコラボレーション、展覧会企画、エッセイ執筆ほか、アーティストコレクティブとして2015年からSabbatical Company、2018年からは女性を中心に美術史の年表を実験的な方法を用いて制作するコレクティブ「Timeline Project」の運営に関わる。2017年第28回五島記念文化賞美術新人賞受賞。2018年3月より1年間、同財団の助成による研修でアメリカ・イギリスの10都市をめぐる。

インタビュー・テキスト: 司寿嶺
―――ご自身が影響を受けてきたものを丁寧に辿ることで、新たな気づきもあったわけですね。その道中、日本との違いを感じる部分はありましたか?

リサーチの一環として、各地で本屋・古本屋・図書館に行くわけですが、どこにいってもジェンダー、フェミニズム、LGBTQ、またそれらに特化したフィクションの棚、その他にもヒューマンライツなどの棚が当たり前に存在しており、店頭に大々的にそのような本が置かれていることも珍しいことではなく、これには日本との大きな違いを感じました。

―――たしかに、日本の本屋でそういった棚の区分はあまり見かけないですよね。フェミニズムに関する本など、最近少しずつ増えてきてはいますが、まだまだ途上という感じです。

また、図書館でフィクションのコーナーにどれくらいの種類の言語の本があるか、街の公共福祉における言語が何カ国語で翻訳されているのか、これはその街がどのような人種比率で、どれくらいそこに配慮がされているのかを推測することができます。
限られた棚のなか、日本語や日本文化がどのように存在しているかを知る経験でした。
私がざっと目を通しただけの印象ですが、日本語の書物に関しては「フィクション、日本文化、日本の歴史」が中心に置かれていることが多いと思いました。勝手な共感なのですが、この偏りに関してはすごくわかるなぁと。日本を離れることで改めて日本文化をもっと知りたいと思うようになったり、世界の中で日本がなにをやってきたのか、その歴史を知りたい・知らなければ、と思うような気持ち、その需要が反映されているように感じました。英語に翻訳されている日本に関する本ですと、やはりステレオタイプな日本文化に関する本が中心である印象は受けました。偏っているわけではないけれど、限られている、そんなふうに思いました。

―――とても興味深いです。

ジェンダーの話ですが、昔から私には、男という枠組みや女という枠組みに所属しづらいという感覚があったんです。世界には本当に多様な区分があり、そういった環境をあたりまえにしようとする人々の生き方や努力を目の当たりにしたのは本当に救われました。楽になったというか、すごく気持ちが自由になったんですよね。
いまでこそこうやって言葉にできるようになりましたが、実は、長年作家活動において自分が女性であることには強く蓋をしていたし、フェミニズム理論からは距離をとっていました。
在学中に「作品が女の子っぽくないね」と言われることはある種の褒め言葉だと思っていたし、初めてトライした公募展で受けたセクハラがなかなかのトラウマとして残り、仕事相手に自分が女性であることを感じさせることはマイナスでしかないと思っていました。

―――男か女か、の枠がどこまでもついてきますよね。あらゆるシチュエーションにおいて。特に現代の日本は、男女二元論で語ることが多いように思います。そしてセクハラの加害者は昔と同じように今も権威側にいたりしますよね。自分が加害したことにすら無自覚な人も多いのではないかと思います。

写真:©Sabbatical Company

©Sabbatical Company



ただ、2015年にコレクティブ(Sabbatical Company、同世代の女性作家4人で結成)を始めようという機運が動き出した頃から、自分がどれだけ「人間として」作家をしたくても女性であることからは逃れられないこと、でもその逃れられなさのなかにも明るいエネルギーに満ちた実践がありうるということをメンバーとのやりとりで少しずつ実感できるようになっていきました。
この実感を土台に、海外研修に向かえたことはとてもラッキーでした。自分の内側に長年居座っていた、世の中に存在している枠組みのどこにも当てはまらないような感情に対して、ようやく自分というカテゴリーを探せばいいのだと肩の力が抜けた気がしましたし、自分が影響をうけてきた思想が、作品だけでなく生き方の上でも反映できるように感じられました。
ここまできて、やっと一定の距離を保ちながら様子を伺っていたフェミニズム理論や、新しく出会ったクィア理論との関係性が生まれたんです。

―――多様性という言葉だけが一人歩きしていて、なかなか日本の日常では、自由な空気は感じられないですよね。私も先日、仕事関係で初対面の男性に「独身か既婚か、子供の有無、年齢」を聞かれてすごく嫌な気分になりました。人にもよりますが、なぜ人は不躾な質問をし、その狭い視野をもとにした勝手な価値基準で他人をカテゴリーに分類しようとするのでしょうか。

日本の社会の雰囲気として、属性ってきっと聞きやすいんですよね。
ただそれは、極端にいうと「日本には日本人しかいない」「日本にはすべての人が同意できる価値観がある」というようなとても暴力的な想像力のもとで起こっている空気感に思います。そこから除外される存在を最初から弾いてしまっている。
自分もコミュニケーションにおいてそういうことをベースにしてきたっていうことを、日本を離れて「楽だな」って思った瞬間に、恥ずかしさとともに猛省しました。自分自身も、そういう質問をたくさん人にしてきたな、って。あと、私たちの国の文化は、傾向として若いということの価値が強かったりするじゃないですか。これはすごく独特ですよね。年齢を重ねていることが恥ずべきことだったり、マイナスなことであるという雰囲気は息苦しさを感じます。

―――確かにそうですね。特に女性は若い方が良い、という、日本社会の価値基準を刷り込まれているから、聞かれたくないし聞くのは失礼だ、と思うんですよね。もっと、根本から自由になりたいですね。