佐藤珠江氏
佐藤珠江

岡山県出身。
7才より、クラシックバレエを始める。2004年渡独。ジャズダンスをDarren Perkinsに師事。
師のグループで活動しながら、DANCEWORKS berlinでグラハム、カニングハム、ホルトンなどのモダン、ヨガ、ピラティス等を学ぶ。
2006年より、オランダのCodartsでコンテンポラリーダンスを始め、現在は関東を拠点に、バレエやコンテンポラリーの舞台に参加。

インタビュー・テキスト: 司寿嶺
―――最初にダンスをはじめたのはいつでしたか?また、きっかけは?

7歳の時ですね。
私の姿勢が悪かったので、親が私にバレエを習わせたいっていうことで、まずバレエを始めました。ダンスにも興味はなかったし、バレエなんてお嬢さんが習うものだし、自分そんなキャラじゃないし(笑)、やりたくないなって思ったんですけど、1年間だけという約束で。
でも、いざ習い始めると、ここで辞めるのは悔しい、せめてトウシューズを履けるまでは頑張ろう、ってレッスンを続けて。そしてトウシューズが履けたら、発表会に出るまでは頑張ろう、発表会に出たら、じゃあ次の発表会出るまで、男性と組んで踊れるまで、ってなかなか辞められなくて結局続いちゃった感じです。

―――ご両親もバレエやダンスをされていたのですか?

いいえ、全然。
父は大学教授で、東洋史、仏教史などを教えていました。定年退職して、今は仏教史の研究センターに在籍しています。好きなことを仕事にしている感じですね。
母は専業主婦でしたが、私を産んでから太極拳を始めて、資格をとって教えたりしています。

―――バレエ以外にも習い事はされていましたか?

小学校の時は、剣道、ソフトボール、ピアノ、習字、いろいろとやっていましたね。
毎日習い事に行っていた感じだったのですが、その中でバレエだけ続きました。

―――ごきょうだいは?

弟がいます。弟もバレエをやっていて、彼の方が先に留学したんですよ。オランダに。

―――すごい。バレエ姉弟ですね。

そうなんです。弟が高校の途中でバレエ留学して、その2か月後に私がドイツへ。今もお互いまだ同じようなこと(ダンスとかバレエとか)をやっているので、仲はいいですね。

――学生時代の好きな教科は何でしたか?

体育の授業も嫌いではなかったけど、生物とか、数学が好きだったかな。
数ⅢC以降はもう無理だと思いましたが(笑)。

――高校2年くらいで進路がわかれてくるじゃないですか。文系とか理系とか。
珠江さんが目指していた方向は?

看護師になりたかったので、理系の大学進学コースを選びました。
もともとバレリーナになりたいとかダンサーになりたいとか思ったことはなかったんです。
看護師とか、特別支援学校の先生とか、福祉系の仕事をしたいと思っていましたね。ただ、理系に進んだものの、選ぶんじゃなかった、っていうくらい途中からついていけなくなってしまったので、結局文系科目で大学を受験して。最終的には希望通り福祉の方に進むことができました。

―――バレエは受験中も続けていたのですか?

高3の5月までコンクールに出て、それ以降は週1回に減らしてレッスンは続けていました。
大学に進学してからもバレエ教室には通っていました。発表会にも出たりして。

―――そして、大学在学中にベルリンへ?

はい。私が大学に通い始めてから弟が留学することになって、自分もバレエとかダンスをこの先ずっと、きっとやめられないなって思ったのと、ベルリンに知り合いがいたのもあって、自分も留学を考え始めて。
実際に住む前に何回かドイツへ行って、2回目に行った時かな。ベルリンバレエ学校のオーディションを受けたんですよ。見事に落ちて、でもあきらめきれなくて。それでワーキングホリデーを使ってベルリンに行くことにしました。
―――それは何歳の時?

19歳ですね。大学2年の10月だったかな。
2004年の10月から1年間。その間、大学は休学しました。

―――ベルリンではどんな生活を送っていたのですか?

一番はじめは、その知り合いの方の家に居候させてもらって自分の家を探しました。ベルリンって日本人がわりと多い場所なので、日本人向け掲示板みたいなのがあって、そこに空き家情報が掲載されていて。

―――ミクシィとか?
そうそう。「この部屋をもう出るので誰か住みませんか?」って条件が書いてあって、悪くない、って思って応募して。やりとりをしているうちにそこにもともと入っていた子とも友達になったりして、知り合いが増えていって、それでバイト先も見つかって。「誠ラーメン」っていうベルリンのラーメン屋でバイトをしていました。まわりには誰かしら日本人がいてくれたので、困った時はみんなが助けてくれました。
バレエのレッスンも時々受けていました。ジャズダンスも習っていたのですが、先生がアメリカ人だったので、日常的にはドイツ語と英語と日本語が入り混じっている感じでしたね。

―――ワーホリの期間は1年間ですよね。その後は?

もうちょっとここにいたいなと思って、学生ビザを取得して、ダンスワークスベルリンという学校に入りました。本当はオランダにあるコダーツというコンテンポラリーダンスの学校に行きたかったんですけど。

―――ワーホリを終えてすぐにオランダへ行かなかったのはなぜ?

その時は、どうやってアプローチしたらいいのかがわからなかったんです。
いまほどネットで情報を得ることができなかったし、SNSとかもそんなになかったし。スマホもないですしね。メールは使っていたけど、基本的には本とか留学ガイドブックで調べて、とかでしたし。
なので、ワーホリの後、いったんドイツで学生ビザを取ってダンスワークスベルリンに入学しました。
佐藤珠江氏
でも、もっと上へ行きたいというか、やっぱりコダーツに入りたいなと思って。それで、直接コダーツへ行ってみたんです。その時、特にオーディションをしていたわけではなかったのですが、プライベートで見てもらえることになって。むこうは入学が9月からなので、次の9月からきていいよ、って合格をもらえました。

―――すごい!!行動あるのみ!ですね。

コダーツの門をたたいたのが2006年の2月だったのですが、日本の大学を休学にしたままなのが心に引っかかっていました。父親に、大学には最低2年は行きなさいと言われていたのですが、まだ1年半しか通っていなかったのでとりあえず3月にいったん帰国して、復学して半年通ってすっぱり辞めて。そして同年9月にコダーツに入学しました。最低2年、ってそれに意味があったのかどうかわからないけど、大学の先生(父)が言うのならそうなのかなと思って。

―――オランダの学校は、何年制だったのですか?

4年制です。でも、飛び級だったり年齢やレベルだったりを加味してくれて私は3年生から始めることができました。2年通えばディプロマ(卒業証明書)がもらえるという話だったのですが、1年間でクビになりました(笑)。

―――え?!なんでですか?!

たぶん、だけど、入ったのは良かったのですが、サボったりしたのもあったし、あとニューヨークに行ってみたくなって。

―――??

授業がある期間にNYに10日くらい行く、アメリカでもダンスのオーディション受けたりするよ、っていう話を学校にして。オーディションで休む場合は欠席扱いにならないというか、その間授業に出なくても咎められないんですけど、私の言葉がうまく伝わっていなかったというのもありまして・・・。
そして実際オーディションは受けずに、ダンスのレッスンを受けたりブロードウェイのミュージカルをみにいったり、好き勝手やっていて。

―――でも、そのNY行きも基本はダンスのためですよね。

まあ、そうではあるんですけど・・・。
あと、大雪が降ったんですよ。

―――雪??
はい。それで帰りの飛行機が飛ばず、2~3日帰国が遅れて。
学校側からしたら、私が戻ってくるといった日に戻ってこないとか、そういうのもあったと思うのですが、私からしたらとても急な話で。「もう、あなたここで頑張らないと退学になるよ」という前振りも何もなく、次の年の話をする面談の時に「あなた、退学ね」って。授業態度のこととか、出席日数足りてませんよ、とか言われて。

―――厳しいんですね。

甘かったな、自分が、って思いました。せっかく希望の学校に入れたのに。
まあでも、私、ちょっと不真面目でした。不真面目だったと思う、自分でも(笑)。
このクラスだるいから代返しといてよ、とか、日本の大学だとそういうところあるじゃないですか。
それでも単位が取れる、みたいな。おなか痛いっていっといて、とか。私も多少そういう感覚でいたのが間違いだったんだと今は思います。